田中角栄に手土産を渡して「時限爆弾ですよ」、日産車に乗ってトヨタ本社へ…ノーベル賞作家「川端康成」はなぜ死の間際まで精力的だったのか

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 川端康成氏がノーベル文学賞を受賞したのは1968年10月のこと。それから4年も経たないうちに、まさかの訃報が世界を驚かせた。1972年4月16日、仕事場にしていた逗子マリーナの一室で、ガス管を咥えての死。誰もが「なぜ」と問うなか、当時の「週刊新潮」は、ノーベル文学賞の受賞後から死までの姿を伝えていた。

 記事によれば、都知事選の選挙応援で脚光を浴びたかと思えば、国際会議の開催に向けて資金集めに東奔西走。72年に入ってからも、政財界のお偉方との直談判で資金を引っ張っていたという。その精力的な姿からは、まこと複雑な文豪の内面をうかがい知ることができるだろう。

(「週刊新潮」1972年4月29日号をもとに再構成しました)

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ノーベル賞受賞でも「萎縮」せず

 ノーベル賞受賞(1968年10月)の報に接した時、川端さんは、いくらかテレながらも率直にこう記者団に語っていた。

「この受賞は大へん名誉なことですが、作家にとっては名誉などというものは、かえって重荷になり、邪魔にさえなって、萎縮してしまうんではないかと思っています」

 が、川端さんは少しも「萎縮」などしなかったように、ハタ目には見えた。創作の面での大作こそなかったが、現実的な社会活動は、従来にもまして活発になった。最近の氏が、最も熱を入れていたのは、日本ペンクラブが主催して今秋(1972年)11月に行う予定の「日本文化研究国際会議」であった。

 これは、近年急速に高まりつつある諸外国の日本研究熱に応えて、世界中から300人の研究者を招待し、京都の国際会議場で、およそ5日間の会議を開こという計画である。

 300人をオールギャランティーで招くとなると、およそ2億円の予算がかかる。川端さんは10年前に、国際ペン大会を東京で開いた際の、日本ペンクラブの会長だったから、こうした国際会議のむずかしさ、なかんずく資金調逵の苦労は身をもって知っている。

色紙などの売上げだけで650万円

 その川端さんが、今回もまたその先頭に立つようになったのは、昨年(1971年)10月に、立野信之副会長が亡くなって以来だという。川端さんの助手役をつとめていた阿川弘之、三浦朱門の両氏が説明する。

「立野さんが亡くなる少し前に、川端さんが見舞に行かれた。その時、立野さんはもう口がきけず、川端さんの手を握って、手のひらに『ペン』と指で書いた。『ペンクラブをよろしく頼みます』という意味なんで、川端さん、すっかり打たれてしまったんだなあ……」

 以来、このノーベル賞作家は「カイコが茶の葉を食うように」色紙や書を書きまくった。それを売って会議の資金に寄付するわけだが、氏の色紙などの売上げだけで、650万円になったという

 しかし、こうした大きな事業には、どうしても政府や財界からの出資が必要である。そうした人たちのところへは、川端さん自身が乗り込んで行った。

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