田中角栄に手土産を渡して「時限爆弾ですよ」、日産車に乗ってトヨタ本社へ…ノーベル賞作家「川端康成」はなぜ死の間際まで精力的だったのか

ライフ

  • ブックマーク

ニッサンの車に乗ってトヨタ本社へ

 たとえば、田中通産大臣のところへも、浅草の雷おこしなどをブラさげて、ヒョイと会いに行く。

「今、浅草へ行ったもんだから、おミヤゲを持って来ました」と川端さん。田中角栄大臣はいつものガラガラ声で「ヤアヤア、それはどうも、いったいなんですか」と迎えると、「いや、時限爆弾ですよ」と、例のギョロ目を見開いてみせる。――そんな社交術も、川端さんは心得ていた。

 そうして“商談”にはいるわけだが、田中氏のほうは、例の昨年の都知事選挙で、秦野候補を応援してもらった“借り”がある(編集部注=1971年4月11日の東京都知事選挙で川端氏は秦野章氏を応援した。当時の田中氏は幹事長)。それをいうと、川端さんは落ち着いたもので、「ええ、その貸しを取りに来ました」

 田中大臣がすぐ竹下登官房長官に電話をする……。今年の予算には、5000万円の政府出資が組まれていた……。

 国際会議のためなら、どこへでもマメに出かけた。ニッサンの車に乗ってトヨタ本社に乗りつけ、車5台の寄付をもらってくるという芸当ができたのも、川端さんならでは、であろう。

 “財界総理”と呼ばれる石坂泰三氏(経団連名誉会長)に会った時には、阿川弘之氏が同行したが、両“巨頭”の会話は禅問答みたいで、いっこうに具体的な数字や金の話にならないうちに終ってしまった。(編集部注=「財界総理」経団連会長の異名。1956年~1968年まで会長を務めた石坂氏から始まった)

 あとで阿川氏が心配して、「お金は大丈夫ですか」と聞くと、川端氏は、「ええ、大丈夫です。ものごとには理外の理があります」と平然としている。事実、相当額の寄金メドが、石坂氏などを通じてついた模様である。

敗れてなお「さわやか」

 “政治活動”の面でも多彩だった。湯川秀樹、朝永振一郎氏らと「世界平和アビール七人委」を構成しており、四次防問題で強い反対意見を持っていたとも伝えられるが、一見それと矛盾するかのごとく思われたのが、昨年の“秦野選挙”における応援の、ただならぬ熱心さであった。(編集部注=「四次防」自衛隊の第四次防衛力整備計画)

 当時(1971年)の『新潮』に発表した「書」と題するエッセーの中で、川端さんは秦野氏の“書”に「驚歎(きょうたん)し、感動し、衝撃を受けたのである」と最大級の賛辞を送っている。

「その書のみごとさ、立派さ、たつぷりと太い線の力強さ、気品高さ、格正しさ、しかもやはらかい豊かさと温いやさしさ、近来これほどの書を見たことはない。書は人であるが、私はこの書にひどく心打たれて、このやうな書を書く人を応援させてもらへるのは幸ひだと、心安らぎ、身もふるひ立った」

 川端さんの“政治参加”の動機には、当然、芸術家としての審美眼が加わっている。それに、川端さんは秦野氏を革新と見ていたフシもある。応援を頼まれた瀬戸内晴美さんが、「私は革新支持だからお断りします」といったところ、川端さんは、「いや、秦野は革新ですよ」と説いたそうだ。(編集部注=「瀬戸内晴美さん」のちの瀬戸内寂聴さん)

 選挙の結果は敗北だったが、力いっぱい戦った川端さんは、むしろ心地よい経験として、
こう書いている。

「運動のあひだ、終始、心身ともにさはやかであつた。私は健かになり、少し太つた。太つたのには、人みながおどろく」(1971年4月21日付 毎日新聞)

  • ブックマーク

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。