自らの不倫が引き金となった“一家の無間地獄” 作家・島尾敏雄が『死の棘』で描いた夫婦の修羅はどのような結末を迎えたか

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両親の墓に突っ伏して長らく慟哭

「婦人公論」昭和36年5月号に載った手記「死の棘から脱れて」のなかで、ミホは早すぎる退院に不安を示した担当医師の所見を記している。

「ひとり子として育てられた私の幼時の生活は、年老いた両親から普通にはあまり見られないほどの濃い愛情を与えられたため、性格に一種の異常が認められるということでした」

 心因性反応と診断されたミホの発作は、名瀬に戻ってからも散発的に吹き出した。

 南国暮らしも2年が過ぎたころ、島尾とミホは初めてふたりだけで旅行をしている。奄美の古仁屋で発動船に乗った2人は、加計呂麻島に渡り、特攻艇の隧道艇庫があった呑ノ浦を回って、父母の墓に足を運んだ。彼女は、墓石と土まんじゅうに突っ伏して長らく慟哭したという。次いで、無人となったミホの実家跡を訪ね、近所に挨拶して歩いた。終戦から十年以上の年月が過ぎていた。

 島で一泊した島尾は、強い衝撃がもとで妻の症状がかえって悪化するのではないかと、気をもむばかりだった。島尾はこの旅の模様を、翌昭和33年「婦人公論」9月増刊号の「蘇えった妻の魂」にこう書いている。傷心を引きずり、加計呂麻島を離れた帰路のことである。

「だが不思議なことに、古仁屋から名瀬までの長いバスのゆられのあとで、妻はおこりが落ちたように、しっかりした挙措をとりもどした。妻のこころのなかでどういう作用がおこったのか私には分らない。とにかくそのあとで、妻はぐんぐん快方に向ったのだ」

書き文字にも表れていた対照的な性格

 図書館勤めをする島尾の執筆活動にも徐々に弾みがついていく。妻の発病をめぐる家族模様を題材に、文芸誌に「離脱」「死の棘」「崖のふち」という12編にわたる短編を発表し続け、それらは昭和52年に刊行された長編「死の棘」として結実する。編集者に手渡す原稿を清書したのは、ほかならぬ作中の主人公、ミホだった。

「死の棘」の担当編集者はこう言う。

「島尾さんはいかにも神経質な、小振りで端正な字を書かれた。比べて、奥さんは、のびやかな大きな字で、対照的なふたりの性格がよく現れていました」

 奄美で20年を過ごした夫妻は、その後、鹿児島の指宿、神奈川の茅ヶ崎と居を移した。

「これまで誰も書かなかった形の長編を書きます」と、編集者に語っていた島尾が69歳で急逝したのは、昭和61年だった。以来、島尾の骨を守る妻は、喪服のまま日を送る。「死の棘」の主要登場人物でもある長男・伸三は、成長し、写真家・エッセイストとして活躍している。

 一方、島尾家が無間地獄の底にあった日、「カテイノジジョウをしないでね」と島尾に哀訴した長女・マヤは、奄美に移住した数年後に突如言葉を失い、平成14年に黄泉へ旅立ってしまった。娘の言葉を取り戻すべく、島尾は生前八方手を尽くしたが、その願いはかなわなかった。

駒村吉重(こまむら・きちえ)
1968年長野県生まれ。地方新聞記者、建設現場作業員などいくつかの職を経て、1997年から1年半モンゴルに滞在。帰国後から取材・執筆活動に入る。月刊誌《新潮45》に作品を寄稿。2003年『ダッカに帰る日』(集英社)で第1回開高健ノンフィクション賞優秀賞を受賞。

デイリー新潮編集部

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