自らの不倫が引き金となった“一家の無間地獄” 作家・島尾敏雄が『死の棘』で描いた夫婦の修羅はどのような結末を迎えたか
不安と孤独に満ちた本土暮らし
ついに出撃命令が下され、死を覚悟した島尾であったが、しかし数日の間、発進の合図を待つうちに、昭和20年8月15日の終戦を迎えている。9月に入り、本土に復員した島尾を追って、ミホは武装解除のために上陸した米兵の目を逃れて、航路、本土に向かった。
島尾の父の強い反対を押し切り、ふたりは翌年、島尾一家が暮らす神戸で結婚式を挙げた。島尾は28歳、ミホは26歳だった。2年後には長男・伸三、その2年後には長女・マヤが生まれた。
食糧不足で、都市生活は混沌としていたが、絹物商を営む父のもとでの新生活は、経済的には安定していた。だが、子育てに追われるミホは、絶えず不安と孤独の狭間にいたようだ。彼女は、そんな気持ちを前出の「錯乱の魂から蘇えって」のなかで、吐露している。
「気候や土地の様子や言葉、風習が大きく違う本土にきた私は、夫の家族たちの白い眼におびえ、女中たちにさえ遠慮しながら、夫のかげに小さくちぢこまっていました。私の日常の生活は針のむしろの上のようでした」
一方、神戸外大の講師を務めながら、同人誌に寄稿する島尾の文筆活動は、順調に滑り出す。昭和25年には「出孤島記」が、第1回の戦後文学賞に選ばれている。島に残してきたミホの父の訃報が、島尾家にもたらされたのは、この祝宴の最中だった。
島尾家に差し込んだ闇
昭和27年、父と後妻との間に一子が誕生したのをきっかけに島尾は、神戸外大の講師を辞して、「死の棘」の舞台となる東京小岩に一家の居を構えた。だがいつからか外に女性をつくり、創作活動も衰えていく。
上京後の島尾は、生活の足しに定時制高校の教師をしていたが、妻の最初の爆発以来、教壇に立つ日も、仕事を探しに出版社を訪ねる際も、家族を連れ歩くようになる。そうするうちにも、神経を細らせた妻の態度は確実に、病的になっていった。
「発作のときの妻の要求はただひとつだけ。私にその過去の行為を認めさせ、くわしい説明を迫るのだが、その度かさなるくりかえしに私は自分がおさえられない。追及を逃げると妻はどこまでも追いかけ、あげくの果ては小刀や紐を持ちだし自殺のまねをはじめ、おたがいが先にやろうと取っ組み合う始末(後略)」(「死の棘」)
それを幼い長男が必死にとめるといった具合で、島尾家に差し込んだ闇は、深く重くなるばかりだった。ミホの発作の兆候に家族の全神経を注ぐ異様な緊張状態が、延々と描かれる物語は、先が見えぬ入院治療の途中で忽然と終わっている。
島尾は入院に先立ち、ふたりの子を、奄美大島の名瀬に住む妻の親戚にあずけ、退院後にはそこに夫婦で移り住んだ。昭和30年10月のことだ。
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