自らの不倫が引き金となった“一家の無間地獄” 作家・島尾敏雄が『死の棘』で描いた夫婦の修羅はどのような結末を迎えたか
SNS上では今、自身の配偶者を奪った不倫相手の個人情報などを投稿する「さらし行為」が問題になっている。SNSを使った“復讐”は現代ならではだが、不倫された側の怒りや苦しみは今も昔も変わらない。1917(大正6)年生まれの作家・島尾敏雄は不倫した側となり、心のバランスを失った妻・ミホから激しい怒りをぶつけられた。そんな日々を冷静に綴った私小説『死の棘』はミホの入院で終わる。その後の2人はどうなったのだろうか。
(「新潮45」2006年4月号特集「明治・大正・昭和 13の有名夫婦『怪』事件簿」より「島尾敏雄・ミホ『小説家を追い詰めた「死の棘」な日々』」をもとに再構成しました。文中敬称略)
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「あなたさま、と言いなさい」
「私たちはその晩からかやをつるのをやめた」。島尾敏雄文学の最高峰作品として知られる「死の棘」(新潮文庫)の、書き出しである。
その日、別の女性の家に泊まった島尾が東京小岩の自宅に戻ると、六畳の彼の仕事場には、インクがぶちまけられ、女性との情事の痕跡を留める日記が、うち捨てられていた。
間もなく、6歳の息子、4歳の娘を連れて外をさまよい歩いていた妻・ミホが戻ってくるが、その相貌からは夫に尽くしてきたこれまでの貞淑な面影が、すっかり剥落していた。場を取りなそうとする夫に、すでに精神の抑制がきかなくなっていた妻は言い放つ。
「あなたはどこまで恥知らずなのでしょう。あたしの名前が平気でよべるの、あなたさま、と言いなさい」(「死の棘」)
凄絶ながら、どこか滑稽な響きが、この後に展開する救いがたく絶望的な一家の風景を暗示する。
島尾は、短編執筆から足かけ17年を費やしたこの作品で、妻につき添い精神病院に入院するまでの9カ月間に起こった、夫婦の修羅を、平静な観察眼で執拗なまでに描き切った。
彼の日記を開封し、没後19年の平成17年に刊行された「死の棘日記」によれば、夫婦が出口の見えない修羅場に転がり込んだその日は、昭和29年の9月30日であったと推測される。日記にあるのは、「死の棘」の冒頭とほとんど変わらないひとことだった。「この晩より蚊帳つらぬ」。
島長の一人娘と震洋特攻隊長
島尾敏雄とミホは、日本の敗戦色が濃厚となった切迫した時勢に、奄美大島南方に浮かぶ加計呂麻島で出会っている。
島で生まれ育ったミホは、島長の一人娘だ。集落でただひとり、武士階級の娘への敬称で「カナ」と呼ばれていた。丸額に黒目が勝った相貌が美しく、島娘のなかでもとりわけ目立ったという。
島の奥深い湾、呑ノ浦には、海軍が築いた、特攻艇を停泊させる隧道艇庫があった。大学卒業後に海軍予備学生となった島尾少尉は、震洋特攻隊長としてこの湾に駐屯し、ひたすら出撃命令を待つ身であった。
やがて互いを知ったふたりは、夜半、人目を忍んでつかの間の逢瀬をするようになるのである。昭和34年2月号の「婦人公論」に寄せた手記「錯乱の魂から蘇えって」でミホは、当時を回想している。
「私は来る夜も来る夜も部隊に近い岬へ、やみ夜の時などは手さぐりで底暗い磯辺の岩をよじのぼり、恐しい毒蛇のとぐろ巻く山のすそをめぐり、潮が満ちて通れない場所は着物を着たままむちゅうで泳ぎ渡り、海草と夜光虫だらけになった濡れたからだを彼の胸にもって行きました」
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