“エレキの神様” に見いだされた演歌歌手・大沢桃子 「歌手になりたい」少女が東京で掴んだチャンスと運命の出会い
進路指導でも「歌手」を貫き、ついに上京もバイト三昧の日々に
高校生になると、進路指導が始まる。1年生の時から調査用紙に書いていたのは「歌手」。気持ちは揺るいでいなかったが、担任の教師たちの間では、それを現実的な進路とは捉えていなかったのが、それこそ現実だったようだ。
「ずっと先生の間で引き継ぎがあったみたいで、3年になった4月、すぐ担任の先生に呼ばれたんです。『あなたが歌手になりたいって書いてるのはちゃんと知ってたけれど、そろそろ現実を見ましょうね』って。でも、目標を持って頑張りたいんです。だからカラオケ大会なんかにも出たいからこれからも出ます、ってきっぱりと言いました。そうしたら先生が『そう決めているんだったら、もう最後までやると思ってやりなさい』と逆に応援してくれるようになったんです。3年時には週末ごとにカラオケの大会にあちこち出ていたんですが、それも応援してくれました」
夢ではなく現実的に歌手を目指す気持ちを言葉にして伝えると、先生の反応は変わり、今でも大沢のファンクラブに入ってくれているほどだ。
当時は高橋真梨子の「はがゆい唇」や「for you...」などをよく歌っていたがその後、5歳児に交通事故で父を亡くした後、母が美空ひばりの「柔」で心を励まされていたことを知り、演歌でカラオケ大会に出ることも増えた。演歌を歌って優勝すると母は殊の外喜んでいたという。日本テレビ系のテレビ岩手の名物番組「沿岸市町村対抗歌合戦」というローカル色豊かな番組があり、そこに大船渡市の代表としても出場した。
「私が歌うのを応援するために、大船渡市からバスを出してたくさんの人が応援しに来てくれたんです。当時よく行っていた『富美岡荘』という特別養護老人ホームに今もよく訪れていますが、そこの職員さんも含めて地元の人の応援を感じて、やっぱり東京に行こうと思いましたね。特にあてはなかったんですが、行ったら何とかなると思って」
東京に出てからは、アルバイトをしながら雑誌の情報を頼りにオーディションに参加し、演歌を歌う日々が続いた。だが現実は厳しく、アルバイトに週6日も入り、歌手になりに来たのか、アルバイトをしに来たのかすら分からなくなるような毎日だった。オーディションを受け続けて約3年。なかなか芽が出ないままだった。
そんな状況を心配して連絡をくれたのが母方の遠い親戚に当たる人物。大沢が「おじさん」と呼んでいたその人物は、浅香光代や田端義男らの舞台照明や音響の仕事をしており、寺内タケシの事務所ともつながりがあったという。当時、ギタリストとして「寺内タケシとブルージーンズ」を結成した“エレキの神様”は、音楽プロダクションを経営していた。
「おじさんは母に『そのうち(諦めて)そっちに帰ると思うから心配いらないよ』って言っていたようです。でも3年経っても帰らないから、『ダメだと思うけど、とりあえず会長のところに連れていくよ』と言って、横浜・関内にあった音楽事務所の『寺内企画』に連れて行ってくれたんです」
折しも、寺内は演歌や歌謡曲のアレンジを手掛けていた時期で、大沢を見て「寺内節の弾き方はこぶしみたいなもんだからそこに歌詞をつけたら演歌が成立するな、面白い、採用!」と大沢の事務所所属が一言で決まった。ただし、ツアーに同行する裏方スタッフで、毎日ジャージ姿という、華やかさとは程遠い立場だった。そんな形ではあったが、何とかプロへの第一歩を踏み出した。
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寺内という偉大すぎる師匠のもとにつくことになった大沢。第2回【「海を憎んだ訳じゃない」と歌う復興ソングが放送NGに 大船渡出身・大沢桃子を救った故郷との縁】では、ついに歌手デビューを果たすも、再び葛藤が続いた日々などについて語っている。





