日本の「ガールポップ」史に輝くシンガーソングライター 井上昌己が今も「素敵な理由」

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高校でもグランプリ デビュー目指して大学で上京

 とはいえ、SNSを使って自ら発信できる時代ではなかった。デビューするなら東京へ、というのが、当時の地方に住む音楽好きの若者たちの共通認識。県立八幡浜高校に進み、高校3年生時に「全国高校生作曲コンクール」の最優秀作品賞グランプリを獲得した。そして日本大学文理学部に進学するにあたり、ようやく上京することになった。

「グランプリ受賞で、やるだけやってみようという気持ちが固まりました。諦めずにチャレンジしてみようって。日大に受かって上京し、入学前から、オーディション情報誌の『De☆View』を買って、自分に合いそうだなと思うオーディション全部に履歴書とデモテープを送りました」

 下手な鉄砲……ではない。5、6カ所に応募すると、すぐに結果は出た。

「最初に受けたオーディションは最終審査まで残りましたが、落ちました。ただ、そこで自分なりのコツをつかんだというか。次に受けたのがトーラスレコード。別のオーディションでも上位に残っていたんですが、トーラスレコードへの所属が先に決まったので、そちらはお断りしたんです」

 まさしく才能のなせる業である。

 所属が決まると、「右も左も分からない状態」のまま、すぐにレコーディングに入り、曲作りも求められたという。

「もっと下積みみたいなものがあり、レッスンを受けて準備を整えてから、来たるべき時にデビューするのかなと思っていました。それが大学1年の冬にレコーディングが始まり、翌春にはデビューしたんです」

 1989年5月24日に発売された、シングル「メリー・ローランの島」とアルバム「彼女の島」の同時発売でデビュー。翌6月21日には「YELL!-16番目の夏-」「瞳-まなざし-」のシングル2作をやはり同時発売した。この年の12月には初のコンサートを開催。翌年6月からは初の全国ツアーが始まり、きわめて順調な滑り出しを見せた。ガールポップシーンでの存在感はあったが、本人にとっては決して満足できる状況ではなかった。

「今いる状況に追い付けていないもどかしさや、自分が到達していないところまで求められることのギャップに、ずっと苦しんでいました。人生経験も浅く、社会のことも何もわからなくて。デビューアルバムには私が作った曲が2曲入ったんですが、自分でこうしたいとかいう意見も、どこまで言っていいのかすら分からなかった。今思えば、こうしとけばよかったなって思いはいっぱいあります。まあ、逆に言えばシングル、アルバムの同時発売でデビューということへの期待も分かっていなくて、プレッシャーもなかったんですよね(笑)」

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 ガールポップシーンの中で歩み始めた井上昌己。第2回【井上昌己、「YELL!-16番目の夏-」で球児たちの心を掴むも…ミリオン無しに「悔しい」】では、その歩みを止めずにここまで来た心境などを語っている。

デイリー新潮編集部

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