「できることを続けていきたい」 佐野元春、45年のキャリアを振り返る
前編【「隼ジェット」はレトロモダンをイメージした 佐野元春が新作を徹底的に語る】を読む
デビュー45周年にあたり、新作『HAYABUSA JET1』を発表した佐野元春。アルバムや創作の背景について主に語ってもらった前編に続き、後編では45年のキャリアを振り返りつつ、今後の展望について語ってもらった。【ライター/神舘和典】
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45年を振り返って
1980年3月にシングル「アンジェリーナ」でデビューした佐野元春は、2025年7月のさいたま文化センター大ホールから45周年アニバーサリー・ツアーをスタートさせる。大都市だけではなく、特急の停車しない街にも行く。
「アニバーサル・ツアーなのでいろいろな街で演奏します。昔からのリスナーにも、新しいファンにも楽しんでもらえるセットリストにします」
そう話す佐野が45年間音楽シーンの第一線でソングライティングし、歌い、演奏してきた、そのエネルギーの源泉は何だったのか。なにをエネルギーに45年走ってきたのだろうか。
「僕にもわかりません(笑)。ソングライティングは14歳のころからやっていました。初期の曲の多くはティーン・エイジャーのころに書いています。『アンジェリーナ』も『情けない週末』もデビュー前に書きました」
「アンジェリーナ」は、夜の都会を疾走するようなロック。「情けない週末」は、年上の女性を想うバラード。パーキング・メーター、落書き、共同墓地……。深夜の街を歌でスケッチしていく。15歳のときに書かれた。歌詞から佐野の早熟さがうかがえる。
「15歳のころ家を出て、横浜でモダン・ダンスのパフォーミング・アーティストと一緒に暮らしていました。同世代よりも早熟だったと思う。『情けない週末』は映画のシナリオのように書いた。だから、映像的な曲になったのだと思います」
10代のころの佐野は夜になるとバイクや先輩のクルマで東京へ出かけた。横浜と東京を行き来する生活で曲を量産していった。
「アルバム『Hert Beat』のタイトル曲『ハートビート(小さなカサノバと街のナイチンゲールのバラッド)』は、19歳のころ、第三京浜で東京へ向かう先輩のクルマの中で書きました。前のシートでは先輩とガールフレンドが仲よくしていて、僕はバックシートで詞を書いていた。僕はロックンロールというフォーマットが好きです。映画や文学と同じように深みのある表現ができると思う」
佐野に限らずおそらく世界中の多くのシンガーソングライターが、今書いている、あるいは歌っている曲が普遍的であってほしいと願い続けている。
「普遍的な曲は、書こうと思っても書けるものではないです。普遍性はリスナーが感じ取るもの。曲を書きはじめたころから気づいていました」
それから45年、佐野はずっと音楽を発信し続けている。
「デビューから45年、時代は変わり、取り巻く環境も変わりました。ふり返るとずっとその場しのぎだった気もします。僕にはこれまでに3つのバンドがあった。THE HEART LAND、THE HOBO KING BAND、そして今のTHE COYOTE BANDです。それぞれ優秀なミュージシャンに恵まれました。このメンバーたちと一緒にいい音楽をやろうと思ってやってきた。続けてこられたのは、もちろん、リスナーがいてくれたおかげです」
ソングライティングには、テクニックよりも大切なことがある。活動を続ける過程で再認識したという。
「どんな表現者も、みんなが聴こえていない声を聴いている。みんなに見えていないものを見ている。それを形にしていくのが自分の仕事だ。僕はそこに忠実でいたい」
佐野の曲が時折、予言的に響くのはなぜだろうか。
「リリックを書くとき、僕は導かれるように少しだけ未来に行く。そこでの風景をスケッチすると、曲ができます。そうやってキャリアを重ねてきました」
苦しい局面はいく度もあったという。
「自分の曲は自分の出版社で管理している。レコードは自分のレーベルで作っている。すべては、表現する自由を確保するためにあったと思います。商業面では、テレビや企業にあまり依存しないようにやってきました」
テレビに出演すれば売れる。タイアップを仕込めば儲かる。そういうメソッドには流されずにきた。
「僕らが作る音楽に“リスペクト”があればいいと思う。今は資本に頼らなくてもソーシャルメディアが活用できる。誰もが自立できるいい時代だ」
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