「森昌子」が“お姉ちゃま”と慕った「歌謡界の女王」 葬儀の場で耳にした“最後の言葉”は「マチャコ、頑張るのよ!」
美空ひばりの激励とメッセージ
女王・ひばりに、このようなレッスンを受けた歌手が他にもいるかどうかは、寡聞にして知らない。
レッスンで遅くなった時は「お腹がすいたでしょ」と、焼きそばを作ってもらったり、「泊まっていきなさい」と言われたりしたことも。ひばりにとっても昌子は特別な存在だったということだろう。
亡くなったと報せを受けた時は着の身着のまま家を飛び出し、ひばり邸に駆けつけた。安置されていたのはレッスンを受けた部屋。家族、スタッフは対応に追われ、その場にいたのはお付きの人と昌子の二人だけ。口紅を差し、ずっと話しかけ、1時間ごとに着物を掛け替え、線香を絶やさないようにしながら10時間ほど。女王と濃密な最期のお別れをすることができた。
ひばりの「最後」の言葉は葬儀の時だった。
参列した人と「川の流れのように」を歌って送ったが、その最中に、ふいに「マチャコ、頑張るのよ!」とひばりの声が聞こえたという。昌子は思わず「はいっ!」と返事してしまい、周囲にたしなめられた。
その後、ステージで「ひばりの佐渡情話」「みだれ髪」を歌うと、背中を押される瞬間があり、「マチャコ、そこはそうじゃないでしょ」と教えてくれているような気がすることもあったそうだ。
中三トリオでは百恵の話が微笑ましい。
百恵は80年に21歳で三浦友和と結婚して引退したが、お互いにバタバタしていて電話で「おめでとう」を言えたのは俳優になった百恵の長男、祐太朗が2歳の頃だったという。
百恵はその頃も自宅周辺でマスコミの目が光り、子供を外に遊びにつれていくこともままならないほどだった。「家の中で遊ぶのが精いっぱい」と百恵が言っているそばで、祐太朗が「ママ、ママ」と呼ぶ声がした。
昌子が百恵に声を聞かせてとお願いすると、祐太朗は「ママもタイヘンですけど、ボクもタイヘンなんです」としゃべったとか。
昌子は3人の男の子に恵まれた。94年に生まれた三男、MY FIRST STORYのボーカル、HIROが小学校高学年の頃。一緒に電車に乗ったら、森進一(77)との離婚が取り沙汰されていた時期でもあり、「森昌子・強欲女7億円」という中吊り広告の週刊誌の見出しが目に入った。昌子は慌ててHIROに帽子を被らせ、「下を向いて」と見せないようにした。昌子は「慰謝料はゼロで合意した離婚でした。ひどい」と思ったそうだ。
連載では「妻として」の話はちょっとしか出てこなかったが、昌子が離婚を切り出した時のことは「元夫には突然の出来事だったようです」と語っていた。ちなみに、07年には森進一にも長期連載をお願いして実現したが、元妻については多くを語らなかった。
そんな森昌子の激動の人生に思いを馳せつつ、「哀しみ本線日本海」「越冬つばめ」「立待岬」といった大人の世界を歌った曲をまたライブで聴きたいというファンも多いに違いない。
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