【べらぼう】蔦重を“江戸メディア王”にした 尾美としのり「朋誠堂喜三二」の哀しき末路
意外なところにいた「朋誠堂喜三二」
毎年8月の1カ月間、仮装した芸者や幇間らが車輪のついた舞台上で即興芝居を演じながら、吉原の大通り「仲の町」を練り歩く。それは吉原を代表する3つのイベントのひとつだった「俄」で、NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の第12回「俄(にわか)なる『明月余情』」(3月23日放送)では、その模様が鮮やかに再現された。
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「俄」が吉原をもり立てるチャンスであり、自分にとっての商機だと考える蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)は、平賀源内(安田顕)を訪ね、このイベントについて文章におもしろくまとめてくれないかと打診した。ところが、エレキテルに夢中な源内にそんな余裕はない。源内の返事は「戯作者の朋誠堂喜三二に頼めばいい」というものだった。
たしかに、この安永6年(1777)の時点で、朋誠堂喜三二はすでに戯作者として名が売れていた。だが、朋誠堂喜三二とは筆名であって、いったいだれのことだかわからない。困惑する蔦重に源内が教えてくれた。その正体は秋田佐竹藩の江戸留御留守居役、平沢常富(尾美としのり)だという。平沢なら蔦重は以前から馴染みだったのである。
早速、蔦重は平沢(以後、喜三二と記す)を訪ね、自分の書店である耕書堂のためにも、青本(表紙が萌黄色の絵入り娯楽本)を書いてくれないかと打診した。最初は渋った喜三二だが、最後は蔦重に乗せられる。しかし、いったん渋ったのには理由があった。元来、喜三二が書いた青本は鱗形屋(片岡愛之助)が刊行していたからだ。このため、文章のほか絵も描けて、喜三二が書く青本の挿絵を描くことが多かった恋川春町(岡山天音)も、蔦重と組むことには乗り気でない。
こうして喜三二はいったん蔦重から離れる。だが、蔦重は祭りの熱気を目にして、それを本にしようと決意する。そして、青本の話を反故にしたことを詫びる喜三二に「序」を書いてほしいと頼み込み、ひとつの冊子が完成した。吉原の「俄」を紹介する俄番付の『明月余情』である。
別名は「道陀楼麻阿」
この安永6年から、喜三二と蔦重の二人三脚ぶりはかなり濃厚になる。吉原のガイドブック『吉原細見』の序も、毎回のように喜三二が書くようになった。女郎の評判記で、吉原を日本に、各妓楼(女郎屋)を国や郡に、女郎を名所旧跡に見立てた『娼妓地理記』も刊行した。
ところで、『べらぼう』で描かれる喜三二は、飄々として冗談ばかりいっている。なかなか味わいがあって、口癖は「どうだろう、まあ」だが、『娼妓地理記』の作者名は、まさに口癖の「道陀楼麻阿」である。これも喜三二の筆名で、人を食ったような、なんともふざけた名前だが、そもそも「朋誠堂喜三二」からして「武士の高楊枝」を意味する「干せど気散じ」をもじったものだった。
幼いころから俳諧や漢学を学び、同時に舞や鼓なども習い、将来、戯作者として花開くための教養や趣味の蓄積には、不足がなかった喜三二。14歳で秋田藩士の平沢家の養子となり、主君のそばに仕える近習役から江戸御留守居役へと順調に出世していった。
江戸御留守居役とは、江戸藩邸におけるいわば外交官のような立場にあった。幕府や諸藩とのあいだを取り持ってさまざまな渉外を担当する役で、藩政の中枢に関わるので、有能な藩士が抜擢されるものだった。
吉原での社交にも勤しみ、かなりの吉原通で、それを自任していたようだが、江戸の社交場である吉原への出入りは、役職柄、当然のことでもあり、かなり「恵まれた地位」にいたといえる。立場上、さまざまな情報を知ることができ、それは戯作者としての活動におおいに役だったと思われる。
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