【べらぼう】蔦重を“江戸メディア王”にした 尾美としのり「朋誠堂喜三二」の哀しき末路

国内 社会

  • ブックマーク

鱗形屋を廃除した蔦重の看板作家に

 喜三二がとりわけ注目されたジャンルは「黄表紙」だった。当時、挿絵入りの読み物を「草双紙」と呼び、先ほど述べた青本も草双紙の一種だった。青本は表紙が萌黄色だったが、黄表紙は文字どおりに黄色い表紙で、洒落や滑稽、風刺が効いた大人向けの挿絵入り読み物のことである。「道陀楼麻阿」や「朋誠堂喜三二」などと名乗っていたことからも、喜三二には洒落や滑稽、風刺が得意分野だったことがわかるだろう。

 ただし、蔦重は『べらぼう』でも再三描かれているように、『明月余情』や『娼妓地理記』を刊行した時点では、本を江戸市中に広く販売するルートを持っていなかったようだ。ところが安永9年(1780)から、続々と黄表紙を刊行する。

 この年の蔦重は、まず喜三二の『鐘入七人化粧』と『廓花扇之観世水』を刊行した。この2冊は、通常の黄表紙が漉返紙という再生紙を使うのに対して、上質紙に刷り出し、さらに美麗な袋に入れた「袋入本」で、価格はふつうの黄表紙の二倍程度だった。ほかに喜三二作の通常の黄表紙『龍都四国噂』も刊行している。

 じつは、この年から鱗形屋が、黄表紙や青本などの草双紙の出版を休止している。蔦重はここでようやく念願かなって、鱗形屋が保持していた制作や流通に関する利権を継承するかたちで、地本問屋(江戸生まれの本を企画、制作、販売した問屋)の一角に進出したものと思われる。

 したがって、以後の蔦重は毎年、積極的に黄表紙を刊行していくが、その中心となったのは喜三二の作品だった。また、天明2年(1782)には恋川春町の作品も刊行している。安永4年(1775)に鱗形屋から出した『金々先生栄花夢』で、黄表紙という新ジャンルを確立した春町は、『べらぼう』でも蔦重に不信感をいだいているように描かれているが、蔦重はその春町をも取り込んだのである。

黄表紙の洒落を目の敵にした松平定信

 ところで、「恋川春町」も筆名で、その正体は駿河国(静岡県東部)の小島藩に仕える武士、倉橋格だった。20歳で倉橋家の養子になり、江戸勤務のかたわら絵師の鳥山石燕に弟子入りし、戯作者として自作を執筆するのはもちろん、喜三二をはじめほかの戯作者の作品に挿絵も提供するという、まさに二刀流の作家だった。ちなみに「恋川春町」とは、小島藩の江戸藩邸があった「小石川春日町」にちなんでいる。

 さて、その後、蔦重は黄表紙の刊行を順調に重ねていった。たとえば、天明7年(1787)に喜三二が書いた『亀三人家妖』は、「きさんじんいえのばけもの」という書名からもわかるように、喜三二が出ずっぱりで、原稿を催促する蔦重と、逃れようとする喜三二が挿絵でも描かれるなど、道化た演技の楽しさがあふれていた。

 また、喜三二は狂歌の世界でも活躍し、こちらの筆名(狂名)は「手柄岡持」。恋川春町の狂名は「酒上不埒」だった。やはり人を食ったような洒落っ気がある。

 だが、天明7年という年は、失脚した田沼意次に替わって松平定信が老中に就き、寛政の改革をはじめた年だった。以後、黄表紙などの風刺が効いた読み物は、風紀を乱すとして弾圧されていく。

 定信が老中になった翌年の天明8年(1788)、蔦重は喜三二作の『文武二道万石通』を刊行した。その中身は、源頼朝が畠山重忠に命じて、武士たちを「文」と「武」に分けて管理させるが、どちらにも入れなかった武士は転がり落ちるというもの。読めば、頼朝が将軍家斉で、畠山重忠は定信、転げ落ちるのは田沼意次らだとわかる。むろん、「文武」は寛政の改革で奨励されたものである。

次ページ:武士の退場で訪れた蔦重の転機

前へ 1 2 3 次へ

[2/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。