爆発音と衝撃と突風に襲われて「ガラスの雨を浴びた」…69人死傷「日比谷線」脱線衝突事故から25年 乗客が咄嗟に“土砂崩れ”と勘違いした理由
脱線車両が対向車両の側面に衝突
東京メトロがまだ営団地下鉄だった2000年3月8日、日比谷線の中目黒駅で平和な朝の風景が一瞬にして崩壊した。恵比寿駅方面から入ろうとしていた営団所属列車の最後尾車両がカーブで脱線し、対向してきた東武鉄道所属列車の側面に衝突するという大事故が発生したのだ。乗客5人が死亡、64人が重軽傷。営団側8両目と東武側6両目がもっとも激しく損傷し、死者は東武側6両目に集中していた。
営団総裁の引責辞任や事故調査検討会の設立、営団と遺族の補償交渉など、事故後の状況と合わせて覚えている向きも多いだろう。線路脇の慰霊碑前で執り行われる慰霊式は今年で25回目を迎えたものの、遺族の悲しみはもちろん、安全運行への強い思いはいまも消えていない。25年前の事故当日、車内はいったいどのような状況だったのか。東武側6両目に乗車していた男性が見た一部始終を振り返る。
(「週刊新潮」2000年3月23日号「地下鉄通勤者の命を守れ あの場所は『魔のカーブ』と警告されていた 死者5人『生死の分水嶺』」をもとに再構成しました。年齢等の表記は掲載当時のままです)
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乗る時刻も車両もいつもの通り
3月8日水曜日、横浜に住む会社員の石川隆さん=仮名=は、いつもと変わらぬ朝を迎えた。
「毎朝、東横線に乗り、中目黒で日比谷線に乗り換えて会社に向かいます。家を出る時間を決めているので、必ず同じ電車に乗ることになるんです。乗る車両も決めていて、混雑する前と後ろを避け、だいたい後ろから3両目。あの朝も同じ車両に乗り込みました」
8両編成の前から6両目。結果的には、この習慣が石川さんを地獄に導いたことになる。が、むろんこの時点でそんなことなど知る由もない。
電車が中目黒駅を出発したのは、定刻より1分ほど遅れた午前9時前のことだった。
「車両はいつも通り、座席は埋まっているが立っている人はチラホラという感じの込み方でした。私は車両の右側前方に立って、眺めるともなく窓に目をやっていたんです」
シルバーシートの前にある、車両の前方から数えて3つ目の吊り革。前の座席には女性が3人座っていたという。
「あの電車は駅を出てトンネルに入る前、減速したり停止することがよくあるんです。あの日もブレーキがかかりました。それで私は、“ああ、今日も止まるんだな”と思って、吊り革をつかみ直して身構えたのですが……」
ガラスの雨を浴び、メガネは吹っ飛んだ
異変が起きたのは、まさにその直後のことだった。
「まず、身体にズズズと振動がきたのです。“あれ、何か変だな”と思った次の瞬間、何かが目の前にドーンと衝突してきた。物凄い音でした。爆発音と衝撃と突風。この3つが同時にやってきました。ガラスの雨を浴び、メガネは吹っ飛んでしまった。悲鳴も聞こえたように思います。その時、私は咄嗟に、“岩が突っ込んできた”と思ったんです。窓に目をやっていたので何かが接近してくるのは見えていた。でも、それが何かは分らなかった。それで何の脈絡もなく、“土砂崩れだ”と考えたのだと思います」
気がつくと、反対側の座席の前までハネ飛ばされ、うつ伏せに倒れていたという。白い煙が立ち込め、周りがよく見えない。やがてぼんやりと目に映ったのは、この世のものとは思えぬ光景だった。
「私が立っていたあたりの壁も窓もなくなり、ポッカリと穴が開いたようになっていたのです。座席も剥ぎ取られ、そこら中にガラスの破片と鉄の瓦礫が散乱していました。ドアの後ろにある長い座席は残っていたが、座っている人を押しつぶすようにして、幅70センチ、長さ5メートルほどの鉄の固まりが食い込んでいました。よく見るその鉄の固まりには、ドアの上に張ってある路線図がついていたのです」
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