特攻に向かう飛行機がなく敗戦を迎え…38年後「小説 上杉鷹山」で脚光 「童門冬二さん」歴史小説に込めた思いとは
時代を超えて生きた参考書に
童門冬二さん(本名・太田久行)が『小説 上杉鷹山』を著したのは、1983年、55歳の時だった。米沢藩主の上杉鷹山が窮乏した藩を改革し、再建する姿を描いた作品である。
【写真をみる】童門冬二さんがスピーチライターを担った「有名都知事」とは?
鷹山は率先して倹約する一方で、必要な投資は惜しまなかった。新田開発を行い特産品を作り、新しい産業を興して藩の財政を立て直す。反対派も多い中、改革実現の見通しを明確に示し、人材の登用や育成を重視する。まず領民の立場を考え心をつかんだ。
バブル経済崩壊後の90年代初めになってから、同書は爆発的に売れ始めた。
「財界」主幹の村田博文さんは振り返る。
「深刻な不況に陥り方向性を見失い漂流している状況下、経営者は鷹山の改革を実践的に捉え、ヒントを得ようとした。現代風に言えば、コストカットで終わらせず意識改革に踏み込み、事業を再構築して再生する。社員にも耐えるべき時期はあるが、納得して協力する。鷹山の姿は時代を超えて生きた参考書になりました」
童門さんは大反響に戸惑う。地方の振興に努めたものの歴史に埋もれた人物の事績をコツコツと掘り起こすことに関心があり、鷹山はその一人だった。
芥川賞候補になったことも
27年、東京生まれ。旧制中学に進んだ後、海軍飛行予科練習生に。特攻に向かう飛行機がなく敗戦を迎えた。“予科練崩れ”に世間は冷たく酒と博打に溺れる。
47年、東京都の職員に。詩が好きで、太宰治を愛読。勤務の傍ら文筆活動を始め、60年、福祉をテーマにした小説「暗い川が手を叩く」が芥川賞候補になる。
一方、美濃部亮吉都知事に信頼され、スピーチライターを担う。美濃部知事から“耳で聴いて理解できる文章でなければ”と諭され、文体も変わった。
政治評論家の小林吉弥さんは思い返す。
「革新の美濃部都政で童門さんは側近。“都民のための都政”というリベラル思想を内容を損なうことなく平易に伝える役割を果たした。聴いてすぐ絵が浮かぶ話でなければ、政治家の話は共感を得られない。敵ながらなるほどと反対派を納得させ、無関心な層も取り込む言葉の力が求められた」
政策室長の要職も務めた。79年、知事の退任とともに都庁を退職。政策立案に携わった者として、福祉重視がバラマキ政策になり財政を悪化させた責任を感じた。
[1/2ページ]



