「スマホの罠」に堕ちた藤田菜七子騎手 「自覚の無さ」で終わらせていいのか
JRAの藤田菜七子騎手(27)が引退届を提出したというニュースは衝撃を持って受け止められた。
きっかけはルールで禁じられているスマホの使用で、同じ問題で複数の騎手が処分されたのは記憶に新しいところだ。
本来持ち込んだり触ったりしてはいけないとされている場所でスマホを使用してはならない――子供でも分かる理屈だ、と責めるのは簡単だ。しかし一方で、どれだけの現代人がこのルールを厳守していると胸を張れるのだろう。映画館やイベント会場で、何度も「スマホの使用禁止」を呼びかけているのは、ルールを守れない人がいかに多いかを示しているのではないか。公共交通機関などでマナー違反をしている人は老若男女を問わない。
スマホやSNSには明らかに中毒性がある。その危険性を警告したのが、ベストセラーとなった『スマホ脳』(アンデシュ・ハンセン著)である。一人の有望な騎手の将来を奪ったのは、本人の自覚の無さなのか、スマホの持つ魔力なのか。以下でご紹介するのは、ハンセン氏はじめ識者らが語った「スマホの危険性と身を守る方法」である(週刊新潮 2020年12月17日号掲載記事をもとに再構成しました。数字・肩書は当時のものです)
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IT企業トップはわが子にスマホを与えない
2010年、アップルの創業者スティーブ・ジョブズは最初のiPadの製品発表会を開く。「インターネットにアクセスできる、比類なき、驚くべき、特別な可能性をもたらす」画期的商品だとジョブズは口を極めて絶賛した。そのしばらく後、ニューヨーク・タイムズ紙の記者がジョブズにこんな質問を投げかけた。
「自宅の壁は、スクリーンやiPadで埋め尽くされてるんでしょう?」
すると何とこんな答えが。
「iPadはそばに置くことすらしない」
ショックを受けている記者にジョブズは続けて、iPadはおろか、すべてのデジタル機器について、わが子のスクリーンタイム(視聴時間)を厳しく制限していると伝えたのだ。
こうした態度をわが子に示しているIT企業トップはジョブズに限らない。マイクロソフトのビル・ゲイツも、子どもが14歳になるまでスマホを与えていない。
アップルの幹部トニー・ファデルはこう言っている。
「冷や汗をびっしょりかいて目を覚ますんだ。僕たちはいったい何を創ってしまったんだろうって。うちの子供たちは、僕がスクリーンを取り上げようとすると、まるで自分の一部を奪われるような顔をする。そして感情的になる。それも、激しく。そのあと数日間、放心したような状態なんだ」
フェイスブックの「いいね」機能を開発したジャスティン・ローゼンスタインなどは、「依存性ではヘロインに匹敵するから」として、本来は保護者がわが子の使用を制限するためのアプリを自身のスマホにインストールした。
ハンセン氏は言う。
「IT企業トップは子供にスマホを与えない」
科学作家の竹内薫氏も笑いながら言う。
「当然でしょう。スマホがどうして人を夢中にさせるのか、仕組みを知っている人間なら子どもに安易にスマホは使わせませんよ」
東大の物理学専攻でプログラマー、現在は子どもたちに英語からプログラミングまでを学ばせる最先端のフリースクールを運営する竹内氏までそう言うのだ。
人を夢中にさせる仕組みとは簡単に言えばこういうことだ。
そもそも人間の脳は、危険を察知する能力を高める方向で進化してきた。その結果、危機を脱する行為をしようとすると“ドーパミン”という物質を放出する。例えば、おいしそうな食べ物を前にしたとき、性的に興奮したときなどだ。太古の昔から脳は、飢餓から脱出せよとか、子孫を残せとかとわれわれに命じてきたわけである。
そして新しい知識を増やしたり、未知の何かに期待したりすることもまたドーパミンを増やす。知識は危機の察知につながる。学校の勉強が嫌いという人は珍しくないが、基本的に人の脳は新しい知識を歓迎するように作られているのだ。
問題は、スマホはのべつまくなし、こういう刺激を人に与えてしまう点である。ニュースサイトだろうとメールだろうとSNSだろうと、「新しいもの」に出会えば脳の“報酬システム”は作動する。
この仕組みを熟知して、利用しているのがゲーム会社やスマホメーカー、SNS運営会社なのである。
ハンセン氏によると、こうした企業の多くが行動科学や脳科学の専門家を雇っているという。
スマホの虜
かくして私たち現代人はまんまとスマホの虜となるわけだ。スウェーデンの調査では、現代人は今や平均1日4時間、若者の2割は7時間もスマホに費やしている。ハンセン氏によれば、実に1日平均2600回、われわれはスマホに触り、10分に1回手に取っている。現在20代の若者は、80歳までの人生のうち5年をSNSに注ぎ込む。普及率の低い日本ではまだそこまでではないとはいえ、同水準になるのも時間の問題だろう。
ここまでの刺激物は人類史上、存在していなかった。そして、その悪影響はすでにさまざまな研究で示されている。
「1日2時間以上のスクリーンタイムはうつのリスクを高める」
「スマホ登場後、スウェーデンでは抗うつ剤使用者が9人に1人まで増加」
「“心の病”の原因の一つである睡眠障害が若者では10年超で5倍増。20年で8倍増に」
「20カ国70万人の調査で10年前より子供の睡眠時間が減少していることが判明」
「5000人以上を調査した結果、リアルな人間関係に時間を使う人ほど幸福感が増し、SNSを使う人ほど人生に対する満足度が減っていた」
「10代(12~16歳)の若者4000人を対象にしたアンケート調査によると、SNSをよく使う子供の方が人生への満足感が低かった」等々。
脳科学者の茂木健一郎氏は言う。
「強制的にでもスクリーンをオフにする時間を持たなければなりません。特に、判断力の未熟な子どもほど、脳をハッキングするようなアプリや動画に容易に乗っ取られやすい」
ハンセン氏も同様の解決法を提示しているが、それは後ほど触れよう。
スマホを持っているだけで……
学習面への影響はどうだろうか。
まずは学習に最も必要な集中力について。スマホを持っている800人を対象に集中力を要する問題をやらせるという実験がある。「スマホを別室に置いてきた」被験者と「スマホをサイレントモードにしてポケットに入れていた」被験者を比較すると、前者の方が成績がよかったのだ。
日本でも類似の実験が行われている。モニター上に隠された文字を素早くいくつも見つけ出すという課題をやらせてみる。被験者の半分は、自分のではないスマホをモニターの横に置き、触ってはいけないことになっていた。残りの半分は、デスクの上に小さなノートを置いた。結果はノートを与えられた被験者の方が課題をよく解けていた。
ただポケットに入れているだけ、置いているだけで、スマホは集中力を奪うのだ。
問題はスマホばかりではない。デジタル機器全般が記憶力に影響を与えているという研究もある。
「二つの大学生のグループに同じ講義を聴かせた。
片方のグループは自分のパソコンを持参し、もう片方は禁止されていた。講義の直後、パソコンを使った学生たちは、もう一方のグループほど講義の内容を覚えていなかった」
あるいは米国のこんな研究も。
「一部の学生には紙とペン、残りの学生にはパソコンでノートを取らせた。すると、紙に書いた学生の方が講義の内容をよく理解していた。詳細を多数覚えていたわけではないが、趣旨をよりよく理解できていた」
内容理解にまで差が出るのだ。
ある研究チームはスマホが学習に及ぼす影響について100件近くの調査を行い、最終的に以下のような結論を出している。子どもも大人も、
「スマホを使いながらの学習だと、複数のメカニズムが妨げられる」
こうした結論を受けて、英国ではロンドンなどのいくつかの学校で、スマホの使用を禁止した。生徒は朝スマホを学校に預け、下校時に返してもらうのである。
その結果はどうだったか。成績が上がったのだ。
この調査を行った研究者の試算では、9年生(日本の中学3年生)は1年間で1週間長く学校に通ったのに相当するほどの学習効果があったという。特に成績を伸ばしたのは成績下位の生徒たちだった。
勉強するときに紙を使うこと自体にもメリットがあるのだろうとハンセン氏は指摘する。
ノルウェーの研究者は小学校高学年のグループの半数に紙の書籍で短編小説を読ませ、残りの半分にはタブレット端末で読ませた。その結果、紙の書籍で読んだグループの方が内容をよく覚えていた。同じ小説を読んだのに、だ。
特に気を付けなければならないのは、子どもの脳への影響だ。
衝動を抑制し、報酬を先延ばしにする機能を持つ脳の前頭葉という部位は、脳の中で最も遅く発達する。25歳~30歳になるまでは完全に発達せず、10代ではまだまだ未熟であるために、脳の報酬システムが命じるままにスマホに耽溺してしまうのである。だからこそ、この「報酬を先延ばしにする能力」、平たくいえば我慢をする能力が人生を左右するほどに重要なのだ。
すぐに新しい刺激が手に入るスマホをずっと手元に置いていると、この能力は育たない。子どもは欲望の赴くままに刺激に溺れ、どんどんバカになってしまうのだ。
ではわれわれと、子どもたちはどうすればいいのか。ハンセン氏は脅かす一方ではなく、同書では数多くの提案をしている。いわば「スマホ脳」からの脱出法だ。すべては紹介できないが、「スマホの表示をモノクロに」「スマホを寝室に置かない」「寝る直前に仕事のメールを開かない」等は、誰でもすぐにでも実行できるアドバイスかもしれない。
また、大人はもちろんのこと、子どもにとって有効なのは運動のようだ。毎日1時間程度であっても、運動をしている子どもは記憶力や集中力などのテストで好成績を収めたという結果が報告されている。
まずは自身の、そして子どもたちのスクリーンタイムをチェックすることから始めてみてはいかがだろうか。
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初代のiPhoneが発売されたのは2007年(日本では2008年)。このとき藤田騎手はまだ小学生だ。物心ついた時にはスマホがあるという世代が社会人になっている。ルール違反へのペナルティーとは別に、スマホ脳にならない予防策、あるいはスマホ中毒からの救出法もより真剣に検討していく必要があるのではないか。