青森・八戸出身の青年とピストル心中した「ラストエンペラーの姪」 親友女性が証言した「交際の様子」「忘れられない口癖」

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ラストエンペラーの姪

 愛新覚羅慧生は、昭和13年2月、満州国の首都新京(現長春)で生まれている。父は満州国皇帝溥儀(ふぎ)の実弟・溥傑(ふけつ)。母は、侯爵・嵯峨実勝(さが・さねとう)の長女・浩である。

 日清友好の礎として、関東軍幹部からこの縁談が持ち上がった当時、溥傑は日本の陸軍士官学校を卒業し、千葉の歩兵学校に学んでいた。話の背景には、皇帝溥儀に嫡子がないという差し迫った事情があった。

 6歳になった慧生は昭和18年、浩の母校・学習院で教育を受けるため嵯峨家に預けられた。その半年後、溥傑の陸軍大学校入学に伴い、母と乳飲み子の妹・嫮生(こせい)も来日したが、昭和20年2月に、在学中の慧生のみを残して一家は満州に戻っていった。そして8月の終戦である。ソ連に捉えられた父溥傑と、嫮生を連れて、過酷な逃亡生活を強いられた母の消息は、ぷっつりと途絶えてしまった。

 浩と次女が、佐世保港に辿り着いたのは、1年半後の昭和22年1月だった。慧生が身を寄せる横浜市日吉の嵯峨家邸で、親子3人の暮らしがはじまっている。8年のち、溥傑は撫順(ぶじゅん)の戦犯管理所にいることが確認された。

同級生の野暮ったい青年

 溥傑の釈放と家族再会を待ち望む母娘の暮らしが9年目を迎えた昭和31年春に、慧生は学習院大学文学部国文科に進んだ。母との話し合いで、東大の中国文学科への進学を諦めての、選択だった。

 約30人の国文科の級友のなかに、八戸出身の大久保武道がいた。坊主頭に酷いニキビ顔、流行らない丸眼鏡。雨でもないのに長靴履きといった青年は、級友から浮いた存在だった。抜けきらない東北訛りが、野暮ったさに輪をかけた。だが慧生だけは、わだかまりなく彼と言葉を交わした。

 就学して3カ月ほどが過ぎた。6月26日に、なにかのリサイタルにふたりで出かけたことが、武道の日記に記されている。

「目白の東京パン食堂部で食事し、慧子(慧生のこと)の身上話を聞かされた。慧子との交際の本格的な第一日であったのだ。品川経由で有楽町に出た。この日こそは生涯の一重大事の発端をなしたのだ。愛新覚羅慧生なる人の家も一応は知ったし、同情を禁じ得なかった」

 一年半後に死を覚悟した武道は、毎日つけていた日記を処分したが、表紙だけとなったノートに、この一枚だけを残していた。

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