コックピットに赤軍派が乱入しても…「よど号ハイジャック事件」日航機機長のスゴすぎた決断と操縦技術

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 1970年、赤軍派たちが国内線の日航機を乗っ取った「よど号ハイジャック事件」が発生した。犯人グループと直接交渉を続けた機長と副機長は、最終的に北朝鮮へのフライトを決断したが、当然ながら一筋縄ではいかない。日本政府と日航による離陸阻止の工作、離陸後のよど号をまさかの場所に誘導した“謎の声”、ほぼ不時着に近い北朝鮮での着陸――。大胆な決断と卓越した操縦テクニックで乗員・乗客を守り抜いた機長は、帰国後に「英雄」と呼ばれた。だが、1本のスクープが彼を地に落とす。

(前後編記事の前編・「新潮45」2009年5月号掲載「シリーズ『昭和』の謎に挑む 2・なぜ英雄が……『よど号ハイジャック』機長がたどった数奇な運命」をもとに再構成しました。文中の年齢、役職、年代表記等は執筆当時のものです。文中敬称略)

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「このままピョンヤンへ行け」

 石田真二機長(当時47)の人生は、昭和45年3月3日午前7時35分、赤軍派を名乗る男たちが日本刀を振りかざしコックピットに乱入してきた時から大きく変わってしまった。

 羽田発福岡行きの日本航空351便「よど号」がハイジャックされたのは、東京湾上空で旋回し機首を西に向けて安定飛行に入ったときである。

 犯人たちは「このままピョンヤンへ行け」と言い、石田機長は「ピョンヤンってどこだ?」と返答した。当時ピョンヤンは平壌(へいじょう)という言葉で認識されていたからだ。コックピットには石田機長の右隣に江崎悌一副操縦士(当時32)が座っていた。その江崎はこう述懐する。

「地図がないというと彼らはレーダーで飛べばいいという。それを聞いたとき、彼らは何も知らないなと思いました。飛行機のレーダーは気象を観測するもので航法には関係がない。飛行機は地上からの誘導で自らの位置を知り着陸できるんです」

対応マニュアルは存在しないも同然

 江崎は犯人たちに、よど号は国内便なので燃料が足りないこと、また地図等の資料を集める必要があることを話し、いったん福岡に降りることを犯人たちに納得させた。

 ハイジャックの赤軍派メンバーはリーダーの田宮高麿(当時27)以下9名だった。後に9名は北朝鮮に亡命し田宮は平成7年に死去、平成13年5月にメンバーの家族(3人の娘)が日本に帰国するが、それはまた別の話である。

 よど号の乗員は石田機長以下7名で、乗客は131人だった。

 当時世界ではパレスチナゲリラによるハイジャックが多発していたが、日本で起きたハイジャック事件としては第1号で、対応マニュアルは存在しないも同然だった。トランスポンダー(管制用自動応答装置)に数字を入力してハイジャックを管制塔に知らせること、乗務員は犯人の希望に逆らわないこと、などが決められているだけだった。

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