帝京高→DeNA→現在、警視庁第四機動隊員 元プロ野球選手・大田阿斗里さん(34)が語る野球人生

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二度の戦力外通告を受けて……

 14年、プロ7年目を迎えたこの頃から、大田の右肩が悲鳴を上げた。「それまで経験したことのない痛み」を覚え、負荷をかけたトレーニングができなくなった。コンディションが万全でないことで、メンタル面での焦りも生まれた。心と身体のバランスが少しずつ崩れていく。不安だけが募っていく日々。14年はわずか3試合に登板、翌15年はついに一度も一軍での登板機会を与えられなかった。

「もう9月の中旬には自分でもわかっていました。二軍の試合でも遠征に帯同することもなくなっていたし、試合に向けての調整もしていませんでしたから。だから、球団から電話がかかってきたときにも、“あぁ、ついに来たか……”という感じでした。でも、まだまだやり切ったという思いはなかったし、うまく休養を取れば投げられることもありました。それに、まだ26歳だったので、“年齢的にもまだやれる”という思いもありました」

 こうして大田は迷いなくトライアウトを受験することを決めた。彼にとって幸いだったのは、ちょうどこのとき、世界の12チームが参加する「プレミア12」が日本で開催されるため、メジャーリーグ関係者が日本に集結していたことだった。

「ちょうどメジャーのスカウトの方が来日していた関係で、レッドソックスとパドレスのトライアウトを受けることができました。その結果、レッドソックスはダメだったけど、パドレスとはマイナー契約を結ぶことになりました。でも……」

 まだ契約が成立していなかったにもかかわらず、スポーツ紙で憶測記事が流れたことにより、パドレスサイドが態度を硬化させてしまい、この話は流れてしまった。そこで急遽、大田はオリックス・バファローズの入団テストを受験することを決めた。

「気持ちはすでにアメリカに飛んでいたけど、パドレス入りの話が流れたことで、ほっともっとフィールド神戸で一人だけで、オリックスの入団テストを受けました。その後、キャンプで実戦形式のテストも受けて育成枠での入団が決まったんです。オリックスの1年はそれまでよりも、いっそう自分の野球人生をかけて臨みました。6月に支配下登録されたけれど、何も成績を残すことができず、結果的に再び戦力外通告を受けました……」

 バファローズでも結果を残すことはできなかった。当然、二度目の戦力外通告も覚悟していた。前回とは違う感慨があった。

「ベイスターズのときは《やり切った感》はまったくありませんでした。でも、オリックスでの1年間は、まったく結果は出なかったけど、覚悟を決めて臨んでいたので、《やり切った感》があり、すんなりと事実を受け入れることができました。だから、もうトライアウトを受けるつもりもありませんでした」

 しかし、大田はトライアウトを受験する。その理由は「会場が甲子園球場だったから」だ。

「高校のときに甲子園に出場し、プロ初先発も甲子園でした。甲子園球場に対する思い入れは特別ですから、“最後にここで終わりたい”、そんな思いで甲子園に行きました。終わった後は、本当に清々しい気持ちになりましたね」

 家族もいる。これ以上、野球を続けるつもりはまったくなかった。27歳にして、第二の人生がスタートする。しかし、具体的なプランは何もなかった。「さて、どうするか?」と思案に暮れていたとき、道を拓くきっかけとなったのは、甲子園球場でのトライアウトで手にした「一冊のパンフレット」だった――。

(文中敬称略・後編【トライアウトが終わった後、妻が差し出した一冊のパンフレット…28歳で警視庁警察官採用試験に一発合格した元DeNA投手のいま】に続く)

長谷川 晶一
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターに。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。著書に『いつも、気づけば神宮に東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ――石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)ほか多数。

デイリー新潮編集部

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