「ホッピーは演歌が似合う酒」…作曲家・船村徹はなぜ「演歌巡礼」の旅に出たのか
「人生に泣き、酒に笑い、音楽の心を知る」
話を戻す。そんな北の街に私は2006年から2007年まで朝日新聞稚内支局長として赴任していた。
06年5月下旬。東京から稚内に赴任して、まだ数えるほどしか日数が経っていなかった。「今夜、船村徹さんが市内の居酒屋を訪ねるそうだよ」。市役所の幹部からそんな話を耳にした。実はその数年前、電話取材だったが、船村さんにホッピーにまつわる思い出話をうかがったことがある。
麦芽とホップで作った炭酸飲料。アルコール度数は0・8%。これを安い焼酎と割って飲む。栃木の片田舎から上京し、音楽学校に入学した当時の船村さんは貧しかった。新宿でバンドのアルバイトをしながら生計を立てたというが、そのころ安い酒に交じって飲んだのがホッピーだった。
「ホッピーは演歌が似合う酒。寂れた縄のれんの店が似合う庶民の酒です」
と船村さん。路地裏の酒場でホッピーを飲んでいると、演歌のメロディーが心に浮かぶようになったそうである。
その船村さんが稚内の酒場にいるという話を聞いた私は、ご挨拶を兼ねて店を訪ねた。
「朝日新聞の小泉です。ホッピーの取材では大変お世話になりました」
船村さんはそのときのことをよく覚えており、「あのときはありがとう。今夜は一緒に飲みませんか」ということに。お言葉に甘えて末席に加えさせていただいたが、この日の船村さんは相当機嫌が良かったらしい。ちびり、ちびり、日本酒を傾けながら、「人生に泣き、酒に笑い、音楽の心を知る。そんな人生でしたね」。遠くを見つめるようにして静かに自らの演歌人生を語り始めた。外は冷たい風が吹いていた。
そして07年春。船村さんが作曲した「宗谷岬」(72年)について書くため、私は東京の事務所を訪ねた。そこで船村さんがなぜ稚内をそんなに頻繁に訪ねるようになったのか、経緯をうかがったのである。
船村さんが夜汽車に乗って初めて稚内を訪れたのは1965年、昭和40年だった。ギターを抱え、オホーツクの咆哮を聞きながら、稚内の街をさまよった。夜は漁師たちとコップ酒だ。
「血液までも凍るような寒さ。でも、人々はたくましかった。怪物のような冬と向き合う姿に希望の光を見つけた思いがした」
と船村さんは語った。1955年に春日八郎(1924~1991)の「別れの一本杉」、61年に村田英雄の「王将」と大ヒットを飛ばし、当時すでに日本の演歌界では不動の地位を築いていた。だが78年、レコード会社との専属契約をやめフリーになった。「演歌巡礼」と称し、土地土地の風に身をさらす旅に出た。
不安はあったに違いない。何が彼をそこまでさせたのだろう。
栃木出身の船村さんは、茨城出身の作詞家で26歳の若さで亡くなった親友・高野公男さん(1930~1956)の言葉がひっかかっていた。
「お前は栃木弁の心で歌を作れ。俺は茨城弁の心で詞を書く」
世の中は東京一極集中になだれをうっていた。音楽づくりの現場も例外ではない。しかし、様々な人たちの営み、その息づかいを知らずに、人の心をとらえる歌が生み出せるのかと船村さんは自身に疑問を突きつけた。
「演歌巡礼」と名づけた旅では、ギター片手に温泉場や場末のキャバレーも回った。後に船村さんは著書「演歌巡礼――苦悩と挫折の半生記」(1983年、講談社)の中でこう書いている。
《人と触れ合い、人の情けを知るのが旅だと私は信じている。袖すり合うも他生の縁というが、袖をすり合わせるのも旅だし、縁とは、座して待つものではないだろう》
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