「悪い人間が金持ちになってもかまわない」――有名な国際政治学者が発した「暴言」の真意とは?
できるだけ平等で、善人が報われる世の中であってほしい――そのような理想に突き動かされて始まった共産主義革命は、1991年のソ連解体によって、事実上、失敗に終わりました。
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一方、その後の資本主義の世界では、「悪い人間」がお金持ちになる例がやたらと目に付くようになりました。やはり今の世の中は何かが間違っているのではないか――そう思う人も少なくないでしょう。
しかし、戦後の国際政治学をリードした高坂正堯氏(1934~1996年)は、「悪い人間が金持ちになってもかまわない」と公言していました。この「暴言」とも思える発言の真意とは――高坂氏の「幻の名講演」を初めて書籍化した新刊『歴史としての二十世紀』(新潮選書)から、一部を再編集して紹介します。
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共産主義は自由主義の国民を幸せにした
共産主義=マルクス・レーニン主義は、共産圏の国民に災いをもたらした一方で、それを採用しなかった自由主義の国民に幸せをもたらしました。というのも、資本主義も自明の正しさを持っている制度ではなく、共産主義の存在が資本主義の人々に自分たちの体制を反省する機会を与えたからです。
たとえば、自由競争は不平等や不公平を起こします。また、需要と供給の自動調節作用が価格に反映される市場メカニズムは、共産主義の中央の計画に基づいた需給調整よりも優れているといわれます。しかし、これは経済の運営方法として効率的であるというだけの話ですので、効率が悪くても平等で公平な制度であればいいという見方もありうるかもしれません。
今や共産主義の敗北が決定的になりましたが、現在流布している共産主義批判の多くは内容に深みがありません。むしろ1930年代の大恐慌下、共産主義の評価が高かった頃、資本主義をどうしたらいいかといった論争にはもっと根源的な問いがありました。
半世紀前の思想家や経済学者は、競争の結果生じる不平等をどう防いだらいいか真剣に議論していたのです。あるいは、共産主義に負けてしまうという恐怖心から、貧富の差をいくぶんなくす社会保障システムが導入されたという側面もあります。
「ユートピア」としての平等
私は平等主義者ではありません。といって、不公平が大好きというわけでもなく、ある程度の平等はあった方がいいという立場です。「なにがなんでも平等」というのは誤りでしょうが、トマス・モアの『ユートピア』(1516年)に始まる平等主義思想が近代人に大きな影響を与えたことは確かです。
「実現不可能な夢」「理想郷」を意味する「ユートピア」は実現しない限りにおいての値打ちがあり、無理やり現実化しようとすれば不具合が生じてしまいます。実際の社会と比較し、その問題点について考えることができるからこそ値打ちがあるのです。
ラグビーボールの哲学
資本主義社会では経済でも政治でも競争原理が働き、各々がイニシアティブを発揮して、それぞれの動きで意外な結果が起きる利点があります。
先進工業諸国がすでに導入している消費税をやるかどうかで喧々囂々な日本の議会でも、くだらない議論をしながら政治が動くわけです。その荒れ様に怒ったり呆れ返ったりする人もいるとは思いますが、それはどっちに転ぶか予測不能の“ラグビーボールの哲学”で、5年したら「馬鹿騒ぎもよかった」ということになるかもしれない。マスタープランに縛られないよさがある。
「お金」と「人格」は別
言い換えれば、それは決定権限を分散させて、政治や宗教、道徳的な正しさとは無関係に経済活動できる方が、人々の自由を保障できるという考え方です。ある人が金持ちになった場合、「その人が本当に立派なのか」と言えるのは、よい社会です。「あいつは金はあるけど、政治の力はない」とか、「いかがわしい仕事をしていても、金持ちである」というように、金持ちと、他の属性は、切り離すことができた方がよい。
世の中には、「悪い人間が金持ちになってはいけない」という人もいますが、悪い人間が金持ちになっても別に構わないのではないでしょうか。逆に、正しいお金持ちが政治の実権も持っている、聖人君子でないと豊かになってはいけない、という社会になったら、怖くて夜も眠れません。
「政治」と「お金」と「人格」を分けることを認めないと自由は成立しない。それは一つの知恵です。
※本記事は、高坂正堯『歴史としての二十世紀』(新潮選書)の一部を再編集したものです。