ヒグマが人間6人を食べた三毛別事件を描いた 吉村昭「羆嵐」が今も読み継がれる理由

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クマが「人間の敵」になった画期的な映画

 もともとクマは雑食動物だが、どちらかといえば木の実などを好んで食べる生き物だと思われてきた。だから人々はクマに「可愛らしい」「おとなしい」「従順」といったイメージを勝手に植えつけてきた。童話『くまのプーさん』や、ぬいぐるみのテディベアなどが典型だろう。

「むかしからクマといえば、絵本の人気キャラクターでした。宮沢賢治『なめとこ山の熊』は、クマ撃ち名人とクマの感動的な“交流”の話。手塚治虫『ブラック・ジャック』の〈一ぴきだけの丘〉は、山中でケガをしたBJを助けてくれたクマとの美しい“友情”の話。かように、かつてクマは“いいやつ”だったのです。ところが、1本の映画が、そんなクマのイメージを一変させます。1976年に公開された映画『グリズリー』です」

 と、映画ジャーナリスト氏が解説する。「グリズリー」とは、ハイイログマの英名で、ヒグマの亜種。体重400~500㎏にも達する地上最大の哺乳類である。

「1975年の映画『ジョーズ』の大ヒットで、雨後の筍のごとく、動物パニックの便乗映画がつくられました。そのほとんどは低予算B級作品で、ヒットしていません。ところが1作だけ、日本で断トツの成績をおさめた映画があって、それが『グリズリー』(ウィリアム・ガードラー監督)なのです。森林公園でキャンプ客の惨殺死体が発見され、グリズリーの仕業だとする動物学者と、否定する公園管理者との争いが物語の主軸です。要するに『ジョーズ』の舞台を海から山に、サメをクマに替えただけなのですが、なぜか日本で大ヒットとなり、この年の外国映画配収でベスト10内に食い込んでいます。それまで日本人がクマに抱いていたイメージを一転させたところがヒットの要因だともいわれました」

 この映画が日本でヒットした翌年、1冊の本が刊行された。それが、吉村昭『羆嵐』である。

傑作が誕生するまで

 ここからは、ベテランの元文芸編集者に解説してもらおう。

「『羆嵐』は、1977(昭和52)年に書き下ろしで刊行されました。中身が“実録ドキュメント”だと聞いて、寒気を覚えながら読んだ記憶があります」

 これは1915(大正4)年に、北海道苫前村の三毛別〔さんけべつ〕(現・苫前町三渓)、天塩〔てしお〕山地の開拓民の村で発生した熊害事件の記録である。数日の間に、胎児1人を含む7人が殺害され(食べられ)、3人が重軽傷を負った、日本の害獣事件史上、最大被害となった悲劇だ。

「場所は、北海道北西部、日本海側の山間部です。地図でいうと、南から海沿いに増毛~留萌を経て稚内へ向かう手前です。映画『駅 STATION』で、大雪で船が欠航して足止めを食らった高倉健が、倍賞千恵子と居酒屋で過ごす名場面があります。あれが増毛ですが、あそこから車で1時間ちょっと北上したあたりです。焼尻島や天売島を臨む美しい夕焼けが有名で、いまでは日本有数の観光スポットです。事件は、その背後の山奥で起きました」

 だが情報手段の乏しい時代だけに、道内の新聞では報じられたものの、全国的なニュースにまではならなかった。

「それが本格的に知られたのは、戦後間もない1947(昭和22)年、北海道大学の動物学者、犬飼哲夫教授が著した『熊に斃れた人々——痛ましき開拓の犠牲』(札幌・鶴文庫)によってでした」

 この30頁余の小冊子には、大正時代に北海道で発生した3件の熊害事件が記録されていた。その最終章「苫前の惨事、十人殺傷の凶熊」が、問題の三毛別事件だった。《頭部には特に金色の毛が密生してゐた。身丈は十尺餘に及び稀に見る大きい雄熊》が、開拓民を次々と襲って食い、射殺されるまでの過程が記されていた。

「この事件に最初に興味を持ったのが、動物文学で知られる作家の戸川幸夫です。犬飼教授の資料をもとに、掌編小説『領主』にまとめ、『オール讀物』1964年5月号に発表します」

《領主は嗔〔いか〕っていた。/それは彼がながい一生を平和に、これまでただの一度も侵されることなく楽しく暮してきた彼の王国を、新参者たちによって割りこまれてきた不愉快さに対しての憤りであった。》

「この一節でわかるように、この掌編は、ヒグマを天塩山地の“領主”にたとえ、人間に生活圏を侵された“被害者”として描いています。所々に、ヒグマの一人称を思わせるような怒りの文章も登場する、いかにも戸川幸夫らしい作品です」

 ちょうどそのころ、苫前地区担当になった北海道庁林務官の木村盛武氏が、本格的な現地調査に乗り出し、さらに正確な記録『獣害史上最大の惨劇 苫前羆事件』を営林局の冊子に発表した。戸川は、その木村論文を参考資料に、『領主』を拡大改訂した短編小説『羆風』〔くまかぜ〕を、『小説新潮』1965年8月号に発表する。

「今度は、さすがにヒグマ寄りの視点は控えめですが、“領主”の表現は残っています。ラストに《年歴たる熊一疋殺すもその山かならず荒るることあり、山家の人これを熊荒れという。》と、『北越雪譜』が引用され、『領主』よりも深みのある小説になっています。しかしやはり、人間は自然界を侵す存在として描かれています」

 その数年後、作家・吉村昭は、月に1回、北海道へ取材に通うことになる。

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