ヒグマが人間6人を食べた三毛別事件を描いた 吉村昭「羆嵐」が今も読み継がれる理由

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《音がした。それは、なにか固い物を強い力でへし折るようなひどく乾いた音であった。それにつづいて、物をこまかく砕く音がきこえてきた。/(略)それは、あきらかに羆が骨をかみくだいている音であった。/呻き声はきこえなかった。家の内部が静まりかえっているのは、人がすでに死亡し、羆が遺体を意のままに食いつづけていることをしめしていた。》

 ホラー小説ではない。これは“ドキュメント”、つまり実際に起きた出来事を、そのまま書いているだけなのだ。ヒグマが人家を襲い、住民を“食べて”いるところである。つづいて、この村で何が起きるのか——これ以上、引用する勇気は、とてもない。

 これは、吉村昭(1927〜2006)の名作『羆嵐〔くまあらし〕』(新潮文庫)の一節である。吉村作品は、息の長いロングセラーが多いが、この『羆嵐』は別格だ。1982年に文庫化されて以来、現在、累計46万4000部。特に最近は増刷がつづき、2023年だけで1万部近くが売れているという。最近、全国で「熊害(ゆうがい)」が相次いでいるが、その影響で本書もあらためて注目を浴びているようだ。

 熊害事件を調べている社会部記者に解説してもらった。

「環境省のデータによると、2023年に入ってから11月末までに、19道府県で200人以上の人身被害が出ています。いままでの最悪が2020年度の158人でしたから、それを上回る被害となっています。しかも、例年とは熊害の事情がちがうようです」

 最近の熊害の特徴のひとつは、人間の生活圏である市街地に、平然と出現していることだという。

「9月に福島県の住宅地で、深夜に窓の外で物音がするのでカーテンをあけたら、体長1メートルほどのクマがいた。窓ガラスを割って入ってくる気配を見せたものの、幸い、すぐに山林の方へ逃げていったといいます。しかし、新潟県の住宅では、男性が庭木に水をやっていたらクマが入ってきて、噛まれている。富山県の住宅でも、クマがガラス戸をやぶって家内に侵入し、室内の女性に襲いかかっています」

 さらに、12月に入っても熊害がつづいたことも異常だという。

「通常、クマは12月ころから冬眠に入るので、その直前に腹を満たしておこうとします。ですから、秋になって熊害が増えるのは自然なのですが、その後はなくなるはずなんです。しかし2023年は、12月に入っても被害がつづいていました。冬眠しないクマ——通称“穴持たず”が増えているとしか思えません」

 いったいなぜ、こんなことになっているのだろうか。

「専門家によれば、ひとことで説明するのは難しいそうです。一つには、近年の異常気象があります。2023年は11月に入っても半袖で過ごせるような夏日がありました。クマにしてみれば冬眠する気になれないようです。また、近年、クマのエサであるドングリやクルミなどの木の実が“凶作”で、そのため、食べ物を求めて市街地に下りてくる。一度、人間界に残飯や農作物、家畜などのエサがあることを学習したクマは、通称“アーバンベア”と呼ばれ、何度でも下りてきます。2023年7月にようやく釧路管内で駆除(射殺)された、コードネーム“OSO18”と呼ばれたヒグマに至っては、ここ数年、何度となく牧場に侵入し、累計66頭もの乳牛を襲い、半分を食い殺しています」

 だが問題は、冒頭の『羆嵐』の引用にあるように、人間を食べるクマがいることだ。

「2023年10月末に、北海道南部の大千軒岳で、3人の登山者が体長2メートル近いヒグマに襲われています。たまたま彼らは消防隊員で心得があったため、ナイフで目やノドを刺して応戦したら、さすがにヒグマは逃げ出した。ところがその直後、おなじ山系に大学生の登山者が入って、連絡がとれなくなったのです。捜索の結果、大学生は性別も判別できないほど損傷した遺体となって発見されました。そして近くでヒグマの死骸も見つかった。数日前に消防隊員を襲ったヒグマで、ナイフの傷が致命傷だったようです。ところがその体内から人骨などが発見された。DNA鑑定の結果、大学生の遺体だとわかった。要するにヒグマは刺されて弱った体にもかかわらず、登山中の大学生を襲って食い、満腹になって息を引き取ったらしいのです」

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