田中角栄の選挙戦は「総合病院」のようだった 石破茂が振り返る「田中派のすごさ」

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田中角栄のどこがすごかったのか

 岸田内閣の支持率が下げ止まらない。

「政治不信」というフレーズが目立つようになると、同時にかつての大物議員を懐かしむ声も聞かれるようになる。

 たとえば「週刊ポスト」は12月22日号で「特捜部が狙う安倍派強盗団」という大見出しの隣に「田中角栄よ、甦れ」という別の記事の見出しが。

「政治堕落の今こそ思う。あの人がいたら――」というコピーも添えられている。

 ある時期には金権政治家の代名詞のように語られてきた田中角栄元首相が、庶民の味方であるかのようなタッチになっているのだ。

 もっとも、功罪あったとはいえ、田中元首相を評価する声は少なくない。ポスト岸田として注目が集まっている石破茂元自民党幹事長も田中元首相からの影響を公言する一人である。

 全盛時の田中派のどこがすごかったのか。田中角栄、渡辺美智雄等、本当の「大物」たちが元気だった時代を知る石破氏が振り返る。

(前後編記事の前編・石破茂著『政策至上主義』をもとに再構成しました)

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田中派からスタートした政治家人生

 私が政治の世界に足を踏み入れた時に所属したのは田中派でした。政治家になった経緯も含めて、少し昔話におつきあいください。

 私が慶応大学法学部を卒業したのは1979年。この時父は鳥取県知事を4期務めたのちに、田中派から出馬して参議院議員となっていました。

 卒業前に父から、政治家になるつもりはあるのか、と聞かれたことがあります。絶対にやらない、と答えた私に父はこう言いました。

「そうだろうな。お前みたいに人のいい奴につとまる仕事じゃない。お前は、俺と違って、苦労していない。政治家になっても、大成しないだろうな」

 その頃の私は、新聞記者に憧れていました。本を読むのも、文章を書くのも好きだったからです。しかし、「ジャーナリストは人を批判してばかりいる仕事」と考えている父に猛反発を食らいます。

 それでは国鉄はどうか。鉄道好きだったのでそう言ってみると「あれは、そのうち潰れる」という理由で却下。結局、あれこれ話し合った結果、銀行を薦められました。

「君は政治家になるんだ」

 そんなことがあり、その年、私は三井銀行(当時)に入行し、日本橋本町支店に配属されます。入った当初は、お札の勘定すらおぼつかず、仕事を身につけるために朝7時半に職場に入り、夜は残業につぐ残業という日々でした。午後11時よりも早く帰った記憶がありません。

 このまま銀行でのキャリアを積んでいくものだとばかり思っていた人生が一変したきっかけは父の死でした。1980年、父は2回目の当選を果たした後に自治大臣・国家公安委員会委員長に就任します。ところがその直後に膵臓癌であることがわかり、翌年の夏に亡くなってしまいました。73歳でした。

 父の葬儀は鳥取では県民葬として行なわれ、続いて東京で前代未聞の「派閥葬」が行なわれました。病床の父が田中先生に「葬儀委員長になってくれ」と頼んだ約束を果たすため、自民党葬ではなく「田中派葬」を執り行なって下さったのです。場所は青山斎場。たいへん大きなものでした。

 その数日後に、田中先生にお礼のあいさつに行った時に、私は突然、選挙に出ろと言われます。

「君が衆議院に出るんだ」

 出てみないか、ではなく、「出るんだ」です。もう決まっているのです。私は銀行に勤め続けたいと言ったものの、まったく聞いてはいただけません。

「何が銀行だ! 君は代議士になるんだ。お父さんがこれまで築いてきたものがどうなってもいいのか。君のお父さんは、これまで鳥取県民のお世話になってきたじゃないか。知事を15年やり、参議院7年、さらに大臣も務めた。君は自分さえ良ければいいのか。そんなことで君ねえ、石破二朗の倅とは言えないよ」

田中派の選挙術

 総理の座から降りていたとはいえ、この頃の田中先生の力には絶大なものがありました。国会議員だって逆らえないのに、20代のただのあんちゃんだった私が逆らえるはずもありません。その後、紆余曲折を経ながら、私は田中先生の下で政治家を目指すことになりました。

 銀行を辞めて、すぐに立候補できたわけではありません。まずは、木曜クラブ(田中派)の事務局員になりました。当時の田中派の選対本部でもありました。

 入ってしばらくして選挙が近くなったときに、先輩秘書の方々から命じられたのは、壁いっぱいの張り紙に全国の選挙区の自民党候補者の名前を書き出すという仕事でした。次にその中で田中派の候補者だけを大きく赤い枠で囲みます。

「この枠内の候補者だけを当選させるのが、ぼくらの仕事だ」

 そう言われました。派閥の候補者を全員当選させるのが、事務局一丸となって取り組むべき最大のミッションだったのです。

 日本全土の白地図で、田中派が取っている選挙区だけを赤く塗るといった作業も行いました。白い部分はまだ制覇していない、ということです。

 事務局では何をするか。末端の私の仕事の一つは、応援弁士リストの作成でした。

 応援に出向く派閥の大物、幹部クラスの名前が左の列にずらり並んでいます。1番上が田中先生で、その下に金丸、竹下、橋本といった名前が続きます。右の列には各候補者の名前が並ぶ。つまり、誰がいつどこに行くかを表にしたものです。

 今ならパソコンでエクセルを使って作る類のものでしょうが、当時はそんなものはないので、手で書き込んでいくしかありません。

 田中派は選挙に強いと言われていたゆえんは、こうしたシステムの存在にありました。事務局がシステマチックに選挙に取り組むのです。

 応援といっても、ただ有名な政治家を投入するといった単純な発想には基づいていません。たとえば農政には強いけれども、建設関連の政策には弱い候補者がいるとします。その場合は建設省(当時)に強い幹部を送り込む。逆に建設省出身だが、農政には弱い候補者がいれば、農水省に強い幹部を送り込む。つまり応援弁士によって候補者の弱点を補うという考え方です。

 まだ今ほど情報網が発達していない時代でした。それでもかき集めた地元紙の選挙区情勢などをもとに分析をして対策を練っていくのです。そのための下調べの作業が、新入りの私の仕事でした。

 田中派のすごいのは、こうした作業を日常的に行なっていたということです。つまり選挙が近づいてから慌てて対策を練ったり、人を派遣したりしていたわけではない。その年の3月くらいからはすでに、いつどこで集会を開くか、どこに誰が行くか、といったことを決めて、選挙に備えていたのです。

 ここで資料作りからコピーまであらゆる下働きを経験しました。私の作った資料をもとにリストが作成され、さらにそれを田中派の秘書会で議論し、チェックして修正を行っていきます。この秘書会の中での序列は、仕えている議員の当選回数とは関係なく、能力と経験で決まります。いわば実力本位のブレーン組織が、戦略を細部まで決めていくわけです。

 この秘書軍団は、中央にずっと居座っているわけではありません。いざ選挙となればそれぞれが「衆議院議員 田中角栄」という名刺を持って各選挙区に散っていきます。そして、「田中先生がよろしくと言っていました」と全国で配るのです。私も京都補選の際には、舞鶴に1カ月泊まり込み、名刺を配って回りました。

渡辺派へ移籍

 選挙は候補者本人がやるものだ、という考えも徹底して教え込まれました。日頃から小さな会合などを候補者本人が行う。その地道な蓄積があってこそ、その後の選挙を戦えるのだという考え方です。そういう蓄積がないままに、ただ選挙の時に“大物”を投入したところで効果は限定的です。最近でも選挙戦終盤に、次々と有名議員を投入する様子が伝えられますが、蓄積があってこそ奏功すると私は考えています。

 こうした田中派の選挙の戦い方を学習できたことは、その後の私にとってとても大きな財産になっていきました。実際のところ、今でも全国の選挙情勢がそれなりに頭に入っているのは、この時の原体験があるからです。

 政界に入りたての私にとって、この時の選挙体験は強烈でした。そして、これが田中派独自の文化、伝統だったのだということもすぐに理解する機会を得ました。

 というのも、1984年、翌々年の選挙に出馬する前に、私は田中派を離れることになったのです。きっかけは、前年に鳥取全県区でトップ当選した議員が急逝したことでした。その後継として出馬してはどうか、という話が持ち上がったのです。

 亡くなられた議員は渡辺派(温知会・その前身は中曽根派)所属であること、そしてこの選挙区にはすでに別の田中派の議員もいらっしゃることから、田中先生が、お前にその気があるのなら口をきいてやろう、と勧めてくださいました。

 渡辺派の掲げる政策が、当時の私にとっては抵抗なく受け入れられるものだったこともあり、私は渡辺派に円満移籍したうえで出馬することになったのです。

「わしらはみんな地鶏じゃけえ」

 その後、派閥によってこんなに選挙のやり方が違うのか、ということを痛感しました。渡辺派の選挙への向き合い方は、田中派ほどシステマチックなものではありませんでした。田中派の選挙戦は「総合病院」のようだと喩えられるほど、メンバーに対して行き届いたものでしたが、「地鶏集団」渡辺派のそれはまったく異なるものでした。

 派閥の重鎮である江藤隆美先生が、「石破君、田中派と違って、わしらはみんな地鶏じゃけえ。エサは自分で探して歩かなければいかんのじゃ」と仰っていたことがあります。つまり派閥の力に頼るのではなく、各議員が自力で戦う文化だったのです。

 どちらの派閥のあり方が良い、悪いということではなく、派閥にはそれぞれの文化があったということなのですが、私はやはり選挙に勝つには田中派のシステムは有効だと感じました。その考えは今に至るまで変わっていません。

 誤解のないように補足しておけば、田中派は選挙のことばかりを考えて政策をおざなりにしていたわけでは決してありません。新総合政策研究会という政策の勉強会も月1回、行われていました。私の仕事は、そこでテープを回して、録音をもとに文章化することでした。

 速記者にもお願いしていたのですが、代金が高いので、登場したばかりのワープロで自分でもやっていました。これが政策を勉強するうえでは非常に役に立ちました。

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 田中派の強さが証明されたのは、田中角栄元首相にロッキード事件で有罪判決が出た直後に行われた、いわゆる「ロッキード選挙」だった。自民党が大きく議席を減らす中、渦中の田中派は驚異の結果を叩き出す。

 以下、後編〈田中派が「ロッキード選挙」でも負けなかった理由 石破茂元幹事長が振り返る「自民党田中派化計画」〉に続く。

※石破茂著『政策至上主義』から一部を抜粋・再構成。

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