圧巻の「20分連続質問」が話題になった石破茂元防衛大臣の原稿はまるで「安全保障入門」だった

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 2月15日の衆議院予算委員会では、通常とはかなり異なるトーンの質疑が行われ、話題となった。質問者は石破茂元自民党幹事長。答えるのは岸田文雄総理大臣。

 どこが異なったかといえば、30分の質問時間のうち、石破氏が20分ほどしゃべり続け、最後に岸田総理の見解を聞く、という流れになっていたことだ。一問一答ではなくて、十問一答くらいだったのである。

 このくらい質問者の喋りが長いと、ブーイングの嵐となりそうなものだが、元防衛大臣でもある石破氏の専門領域の安全保障に関する質問だったこともあり、その評価はさまざま。

 質問が長すぎる、というシンプルな反応もあれば、迫力があって聞き応えがあったという賛辞もネット上では散見された。

 実際の質疑の内容は、いずれ衆議院議事録で公開されるわけだが、今回は、石破氏側から提供された質問のための「草稿」を見てみたい。質問の前提となっている現状認識や問題点は、日本の安全保障政策の課題を網羅した論考としても読める内容で、さながら石破版「日本の安全保障入門」の様相を呈しているのだ(以下、草稿をもとに再構成しました)。

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 総理の政治の師は大平正芳元総理と聞いている。

 私にとっての政治の師は田中角栄元総理であり、日中戦争に従軍された田中角栄先生は生前「あの戦争に行った奴が国の中心にいる間は日本は大丈夫だが、いなくなった時が怖い。だからよく勉強してもらわなければならない」と語っておられた。

 敗戦後78年、戦争に行った方で最も若い方でも齢90を超えておられる。もちろんお元気な方も多くおられるが、「この国の中心」からはほとんどリタイアされている。

 私も長く国会に籍を置いているが、総理と同じ昭和32年生まれで、戦争体験は皆無である。だからこそ田中先生の言葉を胸に刻み、及ばずながら努力してきたつもりである。

(略)

「必要最小限度」は内向きの論理である

 総理の仰っている「戦後の安全保障政策の大転換」とは何か。冷戦構造が終わり、中国の急速な軍拡によってアメリカの一強体制が相対的に低下し、核を保有する国連常任理事国であるロシアがウクライナを侵略し、北朝鮮のミサイル能力が飛躍的に向上し、NPT体制に揺らぎが生じている。つまり、我が国周辺の安全保障環境は急速に変化しているのであり、総理と認識は共有している。

 しかし一方において、専守防衛も、非核三原則も堅持するというのであれば一体何がどう変わるのか。

 我が国の防衛姿勢である「専守防衛」は「相手から攻撃を受けた時に初めて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限度にとどめ、保持する防衛力も自衛のための必要最小限度のものに限るなど、憲法の精神にのっとった受動的な防衛戦略の姿勢」とされているが、これは軍事的合理性から導き出された概念ではないし、軍事的合理性の有無について理論的な検証がなされたこともない。

 この「必要最小限度」という言葉を多用する論理構成は「自衛隊の保持する装備も、法的権限も、我が国を防衛するのに必要最小限度のものである」「必要最小限度だから憲法で禁じられた『戦力』にはあたらない」「よって自衛隊も憲法で禁じられた陸・海・空軍ではない」という論理とパラレルである。

 このような論理は国内では通用しても、国際的には全く通用しない。「これが必要最小限度である」ということを測る便利な物差しは存在しない。

 防衛力は節度をもって整備されなければならないことも、決して軍事大国にならないことも当然であり、防衛力の増強それ自体が目的となるようなことがあってはならない。我々は国民に真実を知らせることなく、軍の組織維持の思惑を先行させたかつての歴史を決して忘れてはならない。しかし「脅威」とは「その国が持つ軍事的な『能力』と他国へ侵攻する『意思』の積」である以上、他国を侵略しないという我が国の意思が確固たるものであれば決して脅威にはなりえないのである。その点を踏まえ、保持する必要な能力に「最小限」という限定をつけるべきではないと私は考える。

専守防衛のリスクを知るべき

「専守防衛」は軍事用語ではない。国防用語辞典にも載っていない政治用語である。英訳も「exclusively defense-oriented policy」という説明的なものとならざるを得ない。

 昭和56年2月、統幕議長の竹田五郎空将が雑誌のインタビューで「専守防衛は非常に戦いにくい戦略であり、同じ効果を上げ、同じ損害で済ませるためにはすごくお金がかかる。国土が戦場になる可能性もあり、そのようなことを覚悟のうえで、専守防衛を唱えてもらわなければ困る」と発言し、事実上解任された。

 その3年前に「有事法制が無ければ自衛隊は超法規的に戦わざるを得ない」と発言した栗栖統幕議長も同じく事実上解任された。これらは誤った文民統制の例である。軍事専門家の見解を求めずして、立法府による文民統制はなし得ない。

 専守防衛とは、まさに竹田空将が指摘されたようなリスクを負ったものであることをよく認識すべきである。私は、「専守防衛」の解釈についても、あくまで国際法的に認められた自衛権しか行使しない、ということ、それ以上でもそれ以下でもない範囲に変更すべきと考えている。

 先般の平和安保法制から岸田内閣の方向性に至るまでの防衛政策の転換について、「盾と矛」と言われる日米の役割分担論を踏まえ、「アメリカの果たしている役割をこれから自衛隊が肩代わりする」と説明する向きがあるが、私はこの認識は誤りだと思う。そもそも本来、自衛権の範囲内で日本がやるべきであったことをアメリカがやっていたのであり、それを本来の姿に戻すだけの話である。

 ドゴールは「同盟とは共に戦うことはあっても運命を共にすることはない」との名言を遺しているが、果たすべき義務が異なる世界に類例のない同盟である以上、可能な限り両国の関係を対等に近づけるべく、不断の努力が必要である。

「核なき世界」と「核戦争のない世界」はちがう

 拡大抑止力を強化するために、リスクと意思決定プロセスを共有する体制構築に向けた取り組みを開始すべきである。ブダペスト覚書(※1)はなぜ履行されなかったのか。ブダペスト覚書が意味をなさなかったことを見て、金正恩が「やはり核を手放してはならない」との思いを強くしたことは想像に難くないし、あの世でサダム・フセインもカダフィも同じ思いを抱いているのではないか。

(※1 1994年にアメリカ、イギリス、ロシアの間で交わされた覚書で、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンの安全を保障した取り決め)

 防衛三文書内に拡大抑止力の実効性を向上させる方策の記述が乏しいことが懸念される。故・安倍元総理の思いは、いまは知る由もないが、核共有とは核兵器の所有権や管理権を共有することでも、使用の権限を共有することでもなく、核抑止の利益と責任、意思決定過程とリスクを共有することなのであり、これを否定する理由は見当たらない。

「作らず、持たず、持ち込ませず、議論もせず」というのは責任ある政治のすることではない。非核三原則を維持したままでも、核共有を可能とする手法はあるのではないのか。「核なき世界」と「核戦争のない世界」は明らかに異なる概念であり、これを混同してはならない。

イージス・アショアを巡る迷走

 拒否的抑止力を強化するため、ミサイル・ディフェンスの実効性を早急に強化すべきである。

 イージス・アショアはそもそも2025年には配備を完了するはずであった。それが「ブースターの破片が落下する」というよくわからない理屈で、現地の理解も得られずキャンセルとなってしまった。

 24時間、365日間断なくミサイル防衛の任に当たる海上自衛隊の負担を軽減し、警備を容易にし、艦の揺れによってミサイル・ディフェンスの正確性が損なわれることのないように地上配備型にしたはずなのであり、その目的はいささかも変わることがない。

 今回提出されている予算案に盛り込まれた、2027年度の就役を目指すいわゆる「スーパーイージス」の予算はこれを強く支持するものだが、イージス・アショアの代替案を巡る、あえて言えば迷走ぶりは日本の防衛装備整備体制の問題点を如実に示したものだと思っている。昨年夏に示された大型艦のイメージを見て、正直、仰天した。対空能力も、対潜能力もなく、その大型艦を守るための潜水艦やイージス艦が必要となる、まるで沈めてくれと言わんばかりの低速な大型艦の発想は一体どこから出てきたのか。

 今回、統幕、陸・空・海幕僚監部、内局、防衛装備庁一体のチームを組むという異例の体制が組まれたとのことだが、これこそが本来あるべき姿である。平成20年、福田康夫総理のご指示により官邸に「防衛省改革会議」を設け、「防衛力整備部門の一元化」を明記した。それが防衛装備庁の創設につながり、確かに良い仕事をしているが、これで十分ではないと思っている。「陸・海・空の個別最適の総和」は「全体最適」にはならないのであり、一案として統幕に防衛力整備部門を創設するなど、さらなる体制の充実を図るべきである。「運用が統合なら防衛力整備も統合でなければならない」というのは小泉内閣において防衛庁長官を中谷元現首相補佐官から引き継いだ時からのテーマだが、未だに完成の域に達していないことについては忸怩たる思いである。

統合司令部の創設を急ぐべきだ

 今回の防衛三文書で盛り込まれた「常設統合司令部」「統合司令官」の創設は大変意義のあるものである。遅くとも来年度には実現すべく、法整備を加速せねばならない。インド・太平洋軍司令官のカウンターパートが存在しないこと自体、日米同盟の実効性を減殺するものであり、総理の指導力に期待するものである。司令部をどこに置くかを巡って議論があり、来年度の創設が見送られるとの報道もあるが、まさしく危機感の欠如であり、陸・海・空の争いなどしている場合ではない。市ヶ谷を軸に、早急に決定すべきである。用地などその気になって探せば見つからないはずはない。

 常設統合司令部は、将来の日米同盟の統合司令部の創設も視野に入れて設けられるべきものである。現在は日米の指揮権の並列を前提として、調整されることとなっているが、本当にこれが最善のものなのか、統合司令部を有効に機能させることにより、不断の検証が行われなくてはならない。

シェルターの整備は急務である

 三文書の中に「国民保護の必要性」は書かれているが、シェルター整備の具体策や手順については何らの記述もない。なぜ東京大空襲で一夜にして10万人もの人命が失われたのか。ロンドンは57日間にわたってナチス・ドイツからの空襲を受けながら、死者は4万3人であった。東京の犠牲の多さについて米軍の「戦略爆撃報告書」は「日本政府には国民を守る気持ちが全くなかった」とし、その背景となった「防空法」の存在を指摘している。「防空法」では、空襲にあった市民に対し、逃げることを禁じ、消火の義務を課したため、大勢の市民が焼夷弾の犠牲となった。なぜキーウは健在なのか、なぜ隣国のソ連と国境線を接するフィンランドが、NATOにも加盟せず、核兵器も保有せず、冷戦を生き延びることができたのか。

 フィンランドのシェルター整備率は人口当たり78%であり、スイス、イスラエルは100%、ノルウェーは98%、ロシアは78%、イギリスは67%、シンガポールは54%であり、現在も整備が進行中である。ロシア、北朝鮮、中国という核保有国に囲まれ、その脅威が高まっているという認識であれば、シェルター整備に最大限の努力をするのが当然ではないか。これこそが拒否的抑止力であり、憲法改正も全く必要がない。

反撃能力の装備と法的な整理も急ぐべき

 反撃力保有について、その装備や法的な整理を急ぐ必要がある。かつて私は「被害が実際に発生してから自衛権を行使するのでは遅すぎるし、単に恐れがあるという段階で行使するのは先制攻撃に当たる恐れなしとしない。相手が着手した時期に自衛権は行使すべき」と答弁したが、今や固体燃料で、コールド・ランチ能力を持ち、移動発射台で自在に移動する北朝鮮に対してはもはや通用しない議論なのではないか。反撃能力保持に当たっては、法的整理とともに、トマホークで本当にその効果が発揮されるのかについてもよく検証が必要である。弾道ミサイルという選択肢も放棄すべきではない。

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 石破氏はかねがね国会で本質的な議論がされることが少ないことを嘆いていた。昨年刊行された著書『異論正論』では「野党はもっと本質的な議論を挑むべきである」という章を設け、次のように述べている。

「野党の側からすれば、さまざまな疑惑、問題を追及したほうがテレビで取り上げられていい、という計算もあるのでしょう。

 ただ、政党支持率を見ればわかるように、そうした行為が野党の支持率アップにはつながっていません(略)

 つまり、舌鋒鋭く総理を追及する様を『いいぞいいぞ』と評価する人は一定数いても、その追及している側に政権を任せていいと思う人はそんなに多くないし、増えないということです。(略)

 国家、国民のためを考えると、国会ではもっと本質的な議論を深めていきたいものだと感じます。このままだと選挙の時に棄権が増えてしまうのではないかというのも心配になってきます。

 いつ質問の機会をいただけるのかはわかりませんが、その時にはできる限り見ている国民の方に納得いただけるような構えの大きな話をしたいものです」

 この意気込みが通じたか、今回、9年ぶりに質問の機会を得たというわけだ。それだけに思いも強く、それが「石破の20分」になったということになる。

 もっとも、質問の場に立てると決まったのは前週のことで、準備期間は1週間なかったという。

 ともあれ、こうした本格的な議論が国会で繰り広げられることを望む人も多いのではないか。

デイリー新潮編集部

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