【どうする家康】半世紀にわたり子づくりした家康、男女ともに愛した二代秀忠、三代家光の“徳川家維持力”の差

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 大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした翌年、元和2年(1616)4月17日、数え75歳で没した徳川家康。当時としてはかなりの長寿だったが、半世紀にわたって子供をもうけ続けたことも特筆に値する。

 正室の築山殿と結婚し、長男の竹千代(のちの信康)が生まれたのが、まだ駿府の今川義元のもとにいた永禄2年(1559)で、側室の於万が十一男で水戸徳川家の祖となった頼房を生んだのが慶長8年(1603)。さらに同12年(1607)にも於梶が市を産んだ(4歳で早世した)。認知しただけで十一男五女をもうけ、ほかにも認知しなかった双子がいれば、家康の落胤と伝えられる人物も少なくない。

 乳幼児の死亡率がきわめて高く、戦争や疫病で命を落とすことも多かった当時、家康の子沢山は、徳川家が繁栄するための礎となった。それにくらべると、嫡男の秀忠、嫡孫の家光は「物足りない」感があるが、それぞれに「事情」もあったようだ。

 二代将軍秀忠の例から見ていこう。秀忠が豊臣秀吉の側室、浅井茶々の妹の浅井江と結婚したのは、文禄4年(1595)9月のことだった。秀忠が数えで17歳だったのに対し、江は3度目の結婚で数え23歳。6歳年上だった。言い伝えでは江は嫉妬深い恐妻家で、秀忠と江のあいだには二男五女が生まれたことになっているが、そのあたり、どうやら怪しい。

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