「“これで終わり”と言ってもすぐにまた練習を…」 ジョーダンとコービーのトレーナーが語った「最大の違い」とは?(小林信也)
意中外からの指名
中学でアメリカに戻った時、コービーは異邦人だった。友人たちの習慣や思考になじめなかった。他の誰とも違う自分を強く自覚し、常識的な選手像に染まらず独自の道を歩み続けた源泉はそこにあるのだろう。
高校生になり、バスケの才能を発揮し始め、ペンシルバニア州最優秀選手に選ばれた彼の元には大学のスカウトが複数誘いに来た。が、コービーはわずかな前例しかない高校からのNBA入りを選択する。引退の迫っていたジョーダンと対戦したい、その強い思いも決断の一因だった。
ドラフトで交渉権を得たのはシャーロット・ホーネッツだった。コービーは、「レイカーズに入団できなければ大学に進学する」と譲らなかった。そこでレイカーズはすぐホーネッツと交渉し、ベテラン選手ブラデ・ディバッツを交換要員にコービーを獲得した。
1年目は出場機会15分程度だったが、オールスター・ウィーク・エンドのスラムダンク・コンテストに出場。ジャンプしながらボールを一度膝下を通してからダンクする「レッグ・スルー・ダンク」を決め史上最年少優勝(18歳)を飾った。2年目はまだ途中出場が多かったが最年少でオールスターに選ばれ“特別な存在”であると広く認知させた。
コービーは自伝に揺るぎない信念を記している。
〈もしも、何かの世界で偉大な存在になりたいなら、徹底的に追求することだ。特定の領域で偉大になりたければ、憑かれたように迫り、求める必要がある。誰もが偉大になりたいとは言うけれど、多くはそれに必要な犠牲を払おうとしない。(中略)コート上で細部に目を配り、フロアの片隅で起こっていることを把握できるようになる唯一の方法は、コート外で同じことができるように内面を鍛え、日常生活の細部にこだわることだった〉
引退し、犠牲にしてきた家族との時間を豊かに過ごし始めた矢先、バスケットボール選手として将来を嘱望された次女ジアナと共に天に召された。
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