実刑判決から40年…田中角栄が教える“正しい札束の配り方” 側近議員は「俺が運んだのは1億円」

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テーブルでトントン

 さらに奥島氏は、日米安保条約の自動更新の是非が争点となった昭和44年(69年)の総選挙の際、角栄の金銭哲学の一端を目の当たりにしたと述懐する。

「公認候補に配る300万円の公認料がありますが、それまでの幹事長は、自分が属する派閥の議員には多めに渡す一方で、他派閥の議員の分を減らすのが普通でした。ところが角さんは一切、それをやらない。反主流派でも、まったく同じ額を配るんです。そのやり方は本当に公平でした」

 厳しい選挙戦を戦うのは、どの議員も同じこと。ここにも角栄一流の配慮がうかがえる。また、公認料を“表の金”とするなら、当然“裏の金”もあった。奥島氏は、角栄から直々にその扱い方を伝授されていた。

「200万円から300万円の札束を包む際には、角さん流の工夫がありました。模造紙などで丁寧に包み、最後にセロテープで留めて完成ですが、角さんは仕上げとばかりに8カ所の尖った角をテーブルでトントンと叩いて潰すんです。理由を尋ねると、“こうするとスーツのポケットにしまう時に角が引っ掛からず出し入れしやすいんだ”と得意げに話してくれました」

 こうして作られた角栄手製の“実弾”は、主に腹心の二階堂進筆頭副幹事長が名代となって、人知れず各選挙区の候補者の手に渡っていった。

「受け取ってくれてありがとう」

 また、角栄は自身はもとより、使いの者が札束を渡す時の言葉遣いや物腰にも徹底的に気を使っていた。

 先の渡部氏によれば、

「オヤジは“間違ってもくれてやるというような態度は見せるな。金というのは受け取る方が一番辛いし、切ないんだ”と繰り返し言っていた。だから俺はいつも“オヤジの金を受け取ってくれてありがとう”っていう気持ちで渡していたよ」

 一方、実際に角栄から金を受け取った経験を持つ福田派の元代議士秘書は、いまも当時のやりとりが忘れられないと振り返る。

「角さんがロッキード事件で逮捕されてから4度目となる、昭和58年12月の総選挙を控えて、私は福田派の事務所に選挙資金を受け取りに行きました。すると、電話中だった福田(赳夫)先生の秘書は私を一瞥するだけで電話を切ろうともせず、“ほれ、持ってけ”と言わんばかりに片手で茶封筒を突き出してきた。封筒には100万円が入っていましたが、あの時は“ふざけるなこの野郎!”と本当に腹が立ちました」

 対照的だったのが、角栄事務所の対応である。

「人づてに角さんに資金パーティーへの出席をお願いすると、すぐに秘書があいさつに見えました。“この度はおめでとうございます”と頭を下げ、50万円が入った熨斗(のし)袋まで持参してくれました。その上、“うちのオヤジは何を喋ればいいでしょうか。先生はどんなことを話してほしいとお考えでしょうか”と、微に入り細にわたってこちらの要望を聞いてくれたのです」

 その後、詳細なメモを片手に事務所を辞した角栄の秘書を見送った途端、複雑な感情に襲われたという。

「福田先生は派閥の長ではありますが、金の渡し方はまるで施しでもするようでした。ところが角さんは、わざわざ秘書を出向かせた上、スピーチの内容まで気にかけてくれました。頂いた額こそ福田先生の半分でしたが、ありがたみは何十倍にも感じましたね」

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