伊藤博文に命を救われた中国人青年が、日本亡命中に「わが国には国名がない」と驚愕したワケ

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 19世紀末から20世紀初頭にかけて、中国の近代化に悪戦苦闘し、生涯を捧げた梁啓超(りょうけいちょう)。今日的な範疇でいえば、ジャーナリストの草分け的な人物である。その思想に大きな影響を与えたのは、足かけ15年に及ぶ日本での亡命生活であった。

 なぜ梁啓超は日本に亡命したのか。そして、彼が日本で摂取し、中国で広めようとした「国家主義(ナショナリズム)」とは何だったのか。
 
 京都府立大学教授の岡本隆司さんの著書『悪党たちの中華帝国』では、梁啓超の思想と事跡を詳しくたどっている。同書から一部を再編集して紹介しよう。

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 1898年9月に北京で起きた反対派のクーデタで、康有為(こうゆうい)が率いる「変法」派は失脚する。康有為にしたがっていた青年たちも、例外ではない。数えで26歳だった梁啓超にも捕縛の手が迫る。
 
 そんな梁啓超を救ったのは、日本の北京駐在代理公使・林権助と公使館滞在中の伊藤博文だった。林は自身の回憶録にその経過を記している。
 
 政変が勃発して、日本公使館に「飛び込んで来た」梁啓超は、自身は3日のうちに市場で処刑されてしまうので、せめて皇帝の安全と康有為の救出をお願いしたい、と林に依頼した。感じ入った林は、思わず独断で即答応諾、そのうえに「何も君も死にゆかずともよいではないか。よく考へてみて、思ひ直したらいつでもわたしの所へ来るがよい。お救けするよ」と声をかけてもいる。
 
 果たして、梁啓超が難を逃れてきたので、林は「ともかくも梁を一室に入れておいて、致し方がないから、伊藤公にこの成行(なりゆき)を」伝えた。すると、「それは好い事をした。梁を救けてやれ。そして日本へ逃してやれ。日本へ着けば俺が世話してやる。梁といふ若者は支那には惜しい魂だね」と伊藤も応じた、という。
 
 伊藤は、師匠の康有為にやや冷淡だったのに対し、その弟子の梁啓超には「偉い奴だね。実に感心な奴だ」といって、満腔(まんこう)の好意を隠していない。けだし伊藤ないし日本人からみて、老成した前者の独善軽躁より、未熟な後者の専心献身のほうが好ましく思えたのだろう。
 
 そして日本人が好感をもって救出した梁啓超が、その日本をテコにして「中華帝国」を変革する役割を演じた。それなら日本は意識すると否とにかかわらず、中国史に絶大な貢献を果たしたといえる。

 ともあれ梁啓超は、かくて九死に一生を得た。北京の日本公使館からスリリングな逃避行を経て、10月3日に天津で軍艦大島に乗船、祖国をあとにする。長い亡命生活がはじまった。

日本亡命で「思想が一変」

 梁啓超は康有為の高弟だったから、本国での「変法」時はもちろん、海外に逃れた後も当初は師説の鼓吹につとめていた。1899年には日本で孔教をアピールした「支那の宗教改革」という文章もある。康有為よろしく儒教・経書に附会した所説を、かれもとなえていたのである。

 ところが日本に来て、日本で暮らし、日本語を読めるようになったことで、その「思想が一変」した。おそらく「沈潜耽溺、精力を集中し、ほかはいっさい抛(ほう)ってしまう」習性を発揮したのだろう。日本語の著述をむさぼり読み、そこに載せる西欧の著作・思想を積極的に吸収することで、新しい「思想」を獲得した。

 梁啓超じしんの「思想一変」がよくわかるのは、たとえば1902年に発表した「保教しても孔子を尊重することにならぬ(保教非所以尊孔論)」という文章であろうか。自分は孔教をアピールした「数年前の所論と正反対」の立場に立った、孔教の「大敵」になった、とあえて断言した。
 
「孔子を愛す」るけれども、「それ以上に真理を愛す」という文面もみえる。梁啓超にとって、「真理」はすでに孔子・経書から離れて存在するようになったことを示しており、康有為に即(つ)いて離れなかった孔教・附会は、もはや梁啓超の思考・言論に必要なかった。いわば康有為からの独立宣言である。その人格的・学術的な影響を脱し、師説から離れたにひとしい。
 
 梁啓超において康有為・附会からの離脱と表裏一体だったのは、このように西欧と日本を基準とした「国家主義(ナショナリズム)」の摂取にある。かれ自身が摂取したばかりではない。それを本国の人士に発信、伝達し、普及するのに成功した。それが「中華帝国」そのものの運命をも変えていったのである。

「中国」という国名

 そうした局面をみるには、宗教・孔教のみならず、それにも関わる史学・歴史の文脈についたほうがよいだろう。梁啓超は「保教しても孔子を尊重することにならぬ」論文を発表したのと同じ年に「新史学」、その前年の1901年には、「中国史叙論」という文章を公にした。いずれも歴史の刷新を訴えたものである。一言でいえば、当時の西洋流の歴史学、すなわち「国史(ナショナル・ヒストリー)」の導入をめざし、それにそぐわない在来従前の旧史学を徹底的に批判した。

 すでに論文タイトルが趣旨を語りつくしている。まず先に出た「中国史叙論」は「中国」という自国(=ネイション)の措定(そてい)とその歴史「中国史」を述べようとしたものである。必ず引用されるフレーズがあって、ここでも紹介しなければなるまい。
 
《わたしが最も慚愧(ざんき)に堪えないのは、わが国に国名がないことである。……「夏(か)」「漢」「唐」などの王朝名で呼べば、国民を尊重するという主旨に悖(もと)るし、「震旦(しんたん)」「支那」などの外国名で呼べば、名は主人に従う公理を失う。「中国」「中華」と呼んでも、自尊自大の謗(そし)りを免れまい。……三つの選択肢がいずれも不十分であるなら、万やむを得ず、「中国史」と呼ぶことにする。やや傲慢の気味はあるけれど、各民族が自国を自尊するのは、当今世界の通例である。》

 ポイントは二つある。第一はそれまでの「中華帝国」には「国名がない」ことであった。そもそも国家(ネイション)ではなかったから、それにつける名も存在しえなかったという意味であり、これからネイション=国家・国民を作る、という宣言でもある。
 
 そして第二に、そのための「中国史」、ナショナル・ヒストリーを構築し、叙述する必要性の自覚であった。ついで執筆した「新史学」は、むしろ方法論である。「中国史叙論」でみたような企図を実現し、「中国史」(=自国史)を創り上げるため、従前の「史学」を批判しつつ、新たな史学を打ち立てる方法を論ずるものであった。

 旧来の史学に対する梁啓超の批判が、何より痛快である。いわく「朝廷があるのを知っていても、国家があるのを知らない。二十四史は歴史ではなく、二十四王朝の家譜にすぎない」。「個人の存在は知っていても、社会の存在を知らない。中国の史書は本紀・列伝がそれぞれ、海岸の石が乱雑に積み重なっているように、無数の墓誌銘を合わせて作っただけのもの」だ、と。
 
 国家も社会も存在しない叙述など、歴史とはいえない。確かにそのとおりではあって、かつて漢籍に親しんだ日本人も読みついできた正史・断代史・紀伝体の全面否定である。それは史書・史学を経書・儒教と不可分ならしめていたドグマからの離脱をも示すもので、梁啓超はわれわれの発想する歴史学に近いものを中国にもたらそうとしたのである。

 歴史学の導入をはじめとして、「中国」という国民国家の構想を牽引(けんいん)したことが、梁啓超の最も顕著な事跡であった。その点だけを取り出していえば、それはそのまま現今の中華人民共和国の指導者たちにまで伝わっている。

※岡本隆司『悪党たちの中華帝国』(新潮選書)から一部を再編集。

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