コロナ禍をフックにぴあを「変身」させる――矢内 廣(ぴあ創業社長)【佐藤優の頂上対決】

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 情報誌やチケット販売などで日本の集客エンターテインメント産業を下支えしてきた“ぴあ”。これまで時代の流れに合わせ、常に変化しながら成長してきたが、コロナ禍はその企業努力を凌駕した。そこで創業者社長が打ち出したのは「変身」である。51年目以降のぴあはどんな会社になっていくのか。

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佐藤 昨年、ぴあは創業50周年を迎えられましたが、矢内さんはリクルートを興した江副浩正氏と並んで学生起業家のはしりですね。

矢内 起業当時は、よく一緒にメディアに取り上げられました。

佐藤 戦前生まれの江副氏とは年齢がかなり離れていますが、ともにこれまでにない事業を作り上げ、その会社は現在も続いています。

矢内 失敗も数多くありますが、何とかここまでやってきましたね。

佐藤 1960年生まれの私の世代だと、学生時代、雑誌「ぴあ」は標準装備でした。私が通っていた埼玉県立浦和高校の前に文房具屋さんを兼ねた書店があったのですが、そこに「ぴあ」が山積みされていました。

矢内 何年くらいのことですか。

佐藤 高校入学が1975年です。

矢内 それならまだ取次(雑誌・書籍の流通業者)が「ぴあ」を扱ってくれず、電車や車で書店に直接運んでいた時期ですね。

佐藤 高校や浪人時代に授業をサボって映画を見に行くとなると、ロードショー公開の新作でなく、古い映画を上映する、安い名画座です。当時は300円から500円ほどでしたが、その情報は「ぴあ」に頼るしかなかった。

矢内 佐藤さんも映画がお好きだったんですね。

佐藤 ええ。よく覚えているのは、仲代達矢主演の「人間の條件」です。3部作で非常に長い映画ですが、池袋の文芸坐地下で、通しで上映したことがありました。この情報を「ぴあ」で見て、前売り券を買いに走った。私は買えましたが、前売り段階で完売になりました。

矢内 当時、「マルぴ」は使われましたか。映画館に行って「ぴあ」を見せると、100円割引になった。

佐藤 ああ、ありましたね。その頃、「ぴあ」は100円くらいでしたから、すぐ元が取れてしまう。

矢内 そう、お得なんです。

佐藤 当時はまだ、学生が起業するという発想はあまりなかったと思います。そもそもどんな経緯で「ぴあ」が誕生したのでしょうか。

矢内 私は1969年に中央大学に入学しましたが、3年の時、TBSの報道局でニュース番組の制作を補助するバイトをしていたんですね。やはり3年ともなると、バイト仲間で飲めば就職の話になるわけです。

佐藤 東大の安田講堂が占拠されて入試が中止されたのが1969年でした。退潮期にあったとはいえ、まだまだ学生運動がキャンパスを覆っていた時期ですね。

矢内 バリケード封鎖で授業がありませんから、私は好きなだけ映画を見ていました。

佐藤 学生運動をしていても、ほとんどの学生は卒業して一般企業に就職していきましたよね。

矢内 まさに「『いちご白書』をもう一度」の世界で、社会体制に組み込まれていくことを潔しとしない気持ちがありながらも、多くが就職した。でも私のバイト仲間たちは、このまま卒業して企業に入ってサラリーマンになるのは癪だという気持ちが強かったんですよ。そこで集まっては「冗談の通じ合う仲間たちで共通の経済基盤を作ろう」と、自分たちに何ができるかを考えていたんです。

佐藤 最初に自分たちの経済基盤を作るというコンセプトがあった。

矢内 ええ。それで古本屋とかカレー屋とか、好きなことを言うわけですよ(笑)。

佐藤 実際にやる人もいましたね。ただ古本屋はまず儲からない。カレー屋はけっこう儲かりますが、利益が出てくるとけんか別れする(笑)。

矢内 仲間うちでも、将来性がないだろうと、それらは立ち消えになりました。いまから思えば、古本屋なら「ブックオフ」が、カレーなら「カレーハウスCoCo壱番屋」ができて全国展開していますから、あながち将来性がないわけではなかった。

佐藤 ただ、どちらも学生が始めた事業ではないですね。

矢内 それで行き詰まってしまったところ、ふっと思いついたんです。私も映画好きでしたが、当時、どこで何を、何時から上映しているかという情報がなかった。あっても新聞の小さな広告くらいで、佐藤さんが通われた名画座や二番館、三番館と呼ばれた新作を遅れて上映する劇場の情報はない。ですから東京中の情報を集めて一冊の雑誌にしたらどうだろうと思ったんですね。

佐藤 映画館に行かないと、次に何をやるかもわからない。

矢内 それは映画だけでなく、コンサートも芝居も美術展もそうでした。そこでサンプルを作ってバイト仲間に見せたら、反応がよかったんですね。すぐにいくらで売るかという話になって、私は「100円」と言ったんですよ。当時、タバコのハイライトが80円でしたから。

佐藤 確かセブンスターが100円でした。

矢内 みんなも「100円なら買うよな」と賛同し、そこがスタートです。その後、4畳半一間から二間あるアパートに引っ越し、黒電話を引き、「月刊ぴあ編集部」と看板を掲げました。

佐藤 それが何年になりますか。

矢内 1972年の夏です。

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