コロナ禍をフックにぴあを「変身」させる――矢内 廣(ぴあ創業社長)【佐藤優の頂上対決】

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佐藤 最初は何部刷ったのですか。

矢内 1万部です。でもなかなか書店が置いてくれなかった。本来、書店に置いてもらうには取次を通すものですが、当時はミニコミブームで取次を通さない雑誌がけっこう並んでいたのです。だから何とかなると思ったら、ダメだった。

佐藤 最初から試練が待っていた。

矢内 そんな時、偶然目にしたのが、紀伊國屋書店社長だった田辺茂一さんの新聞記事で、会いに行ったんです。田辺さんは都内有名書店が加盟する悠々会の会長でした。そうしたら、その場でキリスト教関係の書籍を扱う日本キリスト教書販売の中村義治氏を紹介されたんですね。

佐藤 中村氏は日本のキリスト教の世界では伝説的人物です。後には銀座にある教文館の社長も務められました。

矢内 その中村さんを訪ねると、話をよく聞いてくれて、各地の書店宛てに100通以上、紹介状を書いてくださった。それを持って書店回りをすると、ほとんどが置いてくれたんですよ。お二人は大恩人です。

佐藤 創刊号はどのくらい売れたのですか。

矢内 2千部しか売れませんでした。がっかりはしましたが、やめようとは思わなかった。2号はさらに部数を落としましたが、3号は上向いた。そこから伸びて創刊4年で8万部になり、そして10万部になろうという頃に取次から扱わせてほしいと声が掛りました。

佐藤 ちょうど私の高校、浪人時代に重なる時期に軌道に乗っていったわけですね。その次にはコンピューターによるチケット販売という新しい分野に進出されました。

矢内 当時の前売りチケットは、限られた繁華街のプレイガイドでしか買えませんでした。しかも行っても売り切れで、別の売り場では売れ残っている、なんてこともあったんですね。そこでチケットの在庫を一元管理して電話を使って予約販売ができたら便利だろうと考えた。

佐藤 そのシステムで劇団四季の「キャッツ」のチケットを売ったことは有名です。

矢内 劇団四季の浅利慶太さんってすごいんですよ。開発しているのを知って、使わせてほしいといきなり訪ねてきた。浅利さんが言うには、興行の成功には三つの要素がある。一つはコンテンツ。これはブロードウェーでヒットしている「キャッツ」を持ってきた。二つ目は劇場。日本は1カ月単位でしか貸してくれない。でも浅利さんは数カ月のロングランをやりたくて、都に掛け合って西新宿の土地を借り、自分たちで仮設劇場を作ることにした。そして三つ目がチケットで、3カ月分のチケット10万枚を一度に売りたい、と言うんです。

佐藤 当時は対面の窓口販売ですから、まず無理ですね。

矢内 キャッツ・シアターは1050席くらいでした。1カ月30日にマチネも加えて33回ほど。それが3カ月だと約10万枚になる。

佐藤 準備期間はどれくらいあったのですか。

矢内 私たちはシステムを1984年4月に始めるべく開発していました。でも「キャッツ」の開演は前年の11月、浅利さんがいらしたのは、その年の1月か、2月でした。

佐藤 それは無茶ですね。

矢内 ですから、その日は無理だとお引き取り願った。でも何度もやってくるんですね。それで根負けしてシステムの人たちに相談したら、『キャッツ』のチケットだけを販売するシステムで、まずはスタートすることができそうだとわかり、引き受けた。

佐藤 テスト運用みたいになったのではないですか。

矢内 そういう面はありました。結局、10月に売り出し、3日半で10万枚を売り切りました。

佐藤 それを新聞で見た記憶があります。

矢内 以後、浅利さんと親しくなり、新しいことを成し遂げた二人として「俺たちは戦友だ」と言われるようになりましたね。

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