コロナ禍をフックにぴあを「変身」させる――矢内 廣(ぴあ創業社長)【佐藤優の頂上対決】

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大物経営者たちとの出会い

佐藤 起業時には、これを一生の仕事にしようと思っていたのですか。

矢内 そんな大げさなことは考えていなかったですね。スタートしてすぐ中村さんに助けてもらうような状態でしたし、目の前のことをやるだけで精いっぱいでした。

佐藤 では、経営者であることを強く意識されたのはいつからですか。

矢内 70年代後半に社員の結婚式に招かれたことがあったんですね。披露宴に行くと、当然社員の両親とあいさつを交わします。また結婚すれば、子供が生まれ育てていくことになる。社員はこうした環境の中にいるのだと実感し、会社をやるからには、社員だけでなく家族も含めて背負っていかなければならないと思ったのが最初です。

佐藤 当時はどのくらいの規模でしたか。

矢内 まだ社員30人くらいです。考えてみたら、経営をちゃんと勉強したことがないわけです。それから経営書を読みあさりましたね。

佐藤 どの本が参考になりましたか。

矢内 最初、当時のアメリカの本をかなり読んだのですが、あまりしっくりこなかった。そして松下幸之助さんの本に出会って傾倒し、その後にドラッカーに入れ込み、その次は稲盛和夫さんです。

佐藤 稲盛さんは多くの若手経営者のメンターとなっていますね。

矢内 当時、稲盛さんとソニーの盛田昭夫さんが交互にやってきてお話ししてくださる「盛友塾・盛学塾」という勉強会があったんです。稲盛さんが主宰するのが「盛友塾」、盛田さんが主宰するのが「盛学塾」。そこに若手経営者20人くらいが集まるのですが、私も入れていただいた。

佐藤 それはぜいたくな会ですね。

矢内 その後、稲盛さんが京都で「盛和塾」を作って、東京でも立ち上げる際には、私が世話人になりました。

佐藤 稲盛さんに信頼されていた。チケットぴあを始めた頃のことですか。

矢内 そうですね。そもそも「盛友塾・盛学塾」に参加するきっかけはソニーの盛田さんで、チケットぴあの仕組みで音楽の配信サービスができないか、と提案しに行ったんです。世界中の音楽を集めたデータベースを作り、自分で選曲した曲を各地のスポットで自由にCDに書き込めるサービスを思いついた。

佐藤 それは現在の音楽配信と同じ発想ですね。

矢内 ええ。当時、ソニーは好きな音楽を自分でCDにプレスする技術を持つ会社を買収していました。あれが実現していたら、音楽のストリーミングサービスやサブスクリプションサービスにつながっていったと思いますね。

佐藤 それにしても、矢内さんは名経営者といわれる人とたくさん接点がありますね。

矢内 チケットぴあを作る際には、通産省(当時)の事務次官を務めた佐橋滋さんにもお世話になりました。

佐藤 「ミスター通産省」と呼ばれ、城山三郎の『官僚たちの夏』のモデルにもなった人ですね。

矢内 佐橋さんは当時、余暇開発センターの理事長でした。その団体はエンターテインメント業界の調査をしていて「余暇開発センター調べ」という形で、さまざまな情報を発信していたんですね。それを読むために賛助会員になったのですが、チケットぴあを始める際、余暇開発センターの職員を1人引き抜いたんです。それで佐橋さんの承諾を得るためにお会して、お付き合いが始まった。

佐藤 それは大きな人脈につながります。

矢内 ええ、佐橋さんはいろいろな人を紹介してくださった。チケットぴあが完成してデモンストレーションをした時、佐橋さんに来ていただいたんです。システムを見て「これからこんな時代になるのか」と感じ入っておられましたが、その後、「これは応援団がいるな」と言うんです。

佐藤 応援団?

矢内 私も最初何のことかわからなかったのですが、興行界にはいろいろ既得権益があるわけですね。だから面倒が起きることもある。

佐藤 誰か、しっかりした後ろ盾が必要だということですね。

矢内 はい。それで日本精工の今里広記さん、三井不動産の江戸英雄さん、サントリーの佐治敬三さんをご紹介いただきました。今里さんは松竹の役員でしたし、江戸さんは娘さんがピアニストの江戸京子さんで音楽に造詣が深い。そして佐治さんは文化事業で海外の音楽家をたくさん招聘(しょうへい)されている。名前は存じ上げていますが、新聞でしか見たことがない方々でしたね。

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