ビートたけしの師匠、最後の浅草芸人…焼死した深見千三郎とはどんな芸人だったのか

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 人呼んで「浅草の師匠」、昨今は「ビートたけしの師匠」として知られる浅草芸人・深見千三郎(1923~1983)とはいかなる芸人だったのか――。その訃報が伝えられた時、弟子のビートたけし(76)は秀逸なコメントを残しています。「バカだなぁ。もう少したてば他人が焼いてくれるのに、てめぇで焼いちまいやんの……」。朝日新聞編集委員・小泉信一さんが、様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。数多の伝説に包まれた「最後の浅草芸人」の素顔に迫ります。

最後の浅草芸人

 華やかなテレビや映画の世界に転身し、有名になったコメディアンがいる。身を持ち崩し、孤独な末路を迎え、無名のまま終わった芸人もいる。

 映画館や演芸場、ストリップ劇場が立ち並び、「大衆芸能の聖地」と言われた東京・台東区の浅草六区興行街。実に多くの芸人が、この街から巣立ち、さまざまな人生を歩んだ。

 一方、かたくなに浅草にこだわり、浅草で生涯を終えた芸人もいる。伝説のコメディアン・深見千三郎もその一人である。無名時代の萩本欽一(82)を支え、コメディアンを目指していた青年・北野武(ビートたけし)をゼロから叩き上げた男だ。

 マシンガンのように畳みかけていく話術のスピードとリズム感。都会的なオシャレ感覚とセンスの鋭さ。「飲む・打つ・買うは芸のこやし」と堂々と言ってのけ、それを実行する度胸の良さ。飲み屋でも、支払いは必ず、勘定の倍くらいのカネを払った。「それが芸人の粋だ」と心得ていたのだろう。

 本名・久保七十二(くぼ・なそじ)。浅草芸人に関する「生き字引的な存在」でもあったライターの吉村平吉(1920~2005)が生前、私に語っていたのだが、深見こそが「最後の浅草芸人」だった。

 たけしは著書「浅草キッド」(講談社文庫)の結びに書いている。

《有名になることでは師匠に勝てたものの、しかし最後まで芸人としての深見千三郎を超えられなかったことを、オイラはいまも自覚している》

 師匠に対する尊敬の念は、今でも変わらないのだろう。

 さて、「最後の浅草芸人」とは、実際どのような意味を持っているのか。

 深見は浅草の名物ストリップ劇場「フランス座」(現・浅草フランス座演芸場東洋館)の経営者でもあったが、浅草の街は1960年代の高度成長期以降は斜陽化をたどっていた。新宿、渋谷、池袋などの歓楽街と比べると、若者向けの娯楽施設も少なく、取り残された感は否めなかった。

 性産業も多様化する中で、古く暗いイメージがつきまとっていたストリップ劇場も閑古鳥が鳴く日々だ。

「俺ももう年」

 深見は1981年6月に劇場経営から手をひくと同時に、芸人としても引退した。まだ58歳だった。

 知人の元コメディアンが経営する化粧品会社に就職。と言っても、顧問のような仕事で、毎日出勤することはなかったようだ。愛弟子のたけしもだいぶ前に独立し、72年にビートきよし(73)と「ツービート」を結成。浅草から巣立っていった。

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