西山浩司が語る「イモ欽トリオ」秘話 ハイスクールララバイは160万枚売れたのに音楽賞はゼロ、紅白にも出なかった理由

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ヘトヘト

――イモ欽トリオにはファンクラブもなく、コンサートも行わなかったという。やっていれば、相当儲かったはずだが。

西山:それも萩本さんの許可が下りなかったんです。一緒に「欽ドン」に出演していた中原理恵さんの中野サンプラザのコンサートに、ゲストとして出演しただけですね。

――では、大ヒット中でもそれほど忙しくはなかったのだろうか。

西山:いやいや、CMの撮影などはありましたし、取材が殺到して一日に6本から8本も受けていました。「セブンティーン」とか「明星」「平凡」といったアイドル誌です。もう笑顔も作れなくなるほどヘトヘトでしたよ。

――だが、それ以上にヘトヘトになったのが「欽ドン」の収録だったという。

西山:この世界に入って今年で50年になりますが、正直言って二度とやりたくない仕事ですね。収録は毎週月曜日でした。まだ河田町(東京・新宿区)にあった頃のフジテレビに昼頃に集まって、夕方の6時頃までリハーサルです。萩本さんはタバコを吸いながらそれを横目で見ている。叱ったり怒鳴ったりということはないんですけど、何をやってもウケない。特にワルオはオチの役割じゃないですか。6時から食事を摂ったり、メイクしたりで、7時から本番なんですが、とにかくプレッシャーがすごくて、気持ちを立て直すのが大変でした。後々になって聞いた話だと、リハーサルであええて黒(苦労)を与えることで、本番は白(幸せ)になるという、萩本さん独特の考え“白黒論”があったんだそうです。先にお話しした運を見るのと一緒です。僕の母親も言っていましたが、萩本さんは運を見極めるためか、初対面の相手を頭からつま先までよーく見るんです。僕との出会いの時もそうでした。

後編【高2で欽ちゃんと同居、イモ欽を経て俳優、結局「お前、3億円損したよ」と言われ…ワルオ「西山浩司」が語った芸能生活50年】へつづく

デイリー新潮編集部

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