韓国併合か、仏印進駐か、独ソ戦か――歴史家たちが考える対米開戦の「引き返し不能点」

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 太平洋戦争の勃発については、戦後80年ちかくを経た今もなお、さまざまな原因があるといわれる。日本が対米英蘭開戦に踏み切った昭和16年12月8日(日本時間)、日本軍はイギリスの植民地であったマレー半島、アメリカ海軍の基地があるハワイの真珠湾を奇襲攻撃したが、その前に、この戦争につながる出来事がいくつも起こった。

 圧倒的な国力差のあるアメリカに戦いを挑んだことは、後から考えると、無謀な試みとしか言いようがない。だが、山本五十六が語ったように、開戦から半年から1年の間は、広い太平洋を戦場に互角以上の戦闘を繰り広げたのも事実である。とはいえ、ガタルカナルからの撤退を分岐点に、その後、形勢は圧倒的不利になって敗戦に至った。

『日本の戦争はいかに始まったか―連続講義 日清日露から対米戦まで―』(新潮選書)の「第九章 対米開戦の『引き返し不能点(ポイント・オブ・ノー・リターン)』はいつか」では日本近現代史の第一人者たちが質疑応答形式で「どの時点でどの道を選択していれば、対米戦争は回避できたのか」を解き明かす。

 ここで紹介するのは、本書で「日清・日露戦争はなぜ起きたのか」を担当した黒沢文貴氏、「第一次世界大戦はなぜ起きたのか」の小原淳氏、「満州事変はなぜ起きたのか」の井上寿一氏、「支那事変はなぜ起きたのか」の戸部良一氏、それぞれの見解である。

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韓国併合が一里塚だった――黒沢文貴(東京女子大学名誉教授)

 太平洋戦争の時代と日清・日露戦争の時代とでは国内外の環境がかなり異なりますので、日米戦争の直接的原因を明治期に求めるのは基本的には難しいと思います。ただし歴史学は因果関係を重視しますので、その点からお答えさせていただきます。

 日露戦後から昭和戦前期にかけての日米関係における主要な争点の一つは満州問題にありましたので、さかのぼれば日露戦争後の満州権益の獲得と勢力圏化が日米開戦のそもそもの遠因であるとする見方は、これまでにもありました。

 そこで、その見方をさらにさかのぼりますと、では日露戦争はなぜ起こったのかという問いにつながります。その点を今回のお話の文脈からいえば、日本の韓国にたいする支配欲の強まりによるものですので、実は韓国問題が重要になります。

 とくに韓国を併合したことが、隣接地域としての満州確保の必要性を一段と強めることになりましたので、そういう意味では日韓併合を重視するという考え方もできるかと思います。韓国統治の安定のためには満州支配(南満州からやがて全満州へ)が欠かせないという思いが併合以後とくに強まるからです。

 しかし、韓国における影響力を高めるやり方としては、併合以外にも選択肢はあったと思いますし、他のやり方ならば隣接地域との関係も違ったものになったかもしれませんので、ここでは問題提起的に、韓国併合が日米戦争への道の重要な一里塚であったと、ひとまずお答えさせていただきたいと思います。

「ハル・ノート」の時点ですでに外交交渉の余地は狭まっていた――小原淳(早稲田大学文学学術院教授)

 第1次世界大戦と似ているかもしれませんが、私は直前の時期まで戦争を回避する可能性は残っていたのではないかと考えます。具体的に言えば、開戦直前の1941年11月まで、日米間の交渉は続けられていました。

 最終的には、その11月に中国からの全面撤退を要求するハル・ノートが出される訳ですが、これも回答期限がいつまでと付されていないので、交渉を続ける余地はゼロではなかったのではないでしょうか。

 ただ、組織や制度の問題も考える必要があると思います。日米交渉の最前線にいた人たち、例えば駐米大使の野村吉三郎(きちざぶろう)は、オーストリアやドイツに駐在した経験があって、ローズヴェルトとも旧知の関係でした。

 来栖(くるす)三郎は日独伊三国同盟が締結された時のドイツ大使ですが、妻はアメリカ人で、親米的な傾向が強い人であったと言われます。外務大臣の東郷茂徳(しげのり)も、第1次世界大戦後にヨーロッパの惨状を調査する視察団としてベルリンに赴任し、またドイツ大使を務めた経験もあり、さらに妻はユダヤ系のドイツ人ですから、ドイツのことを良く知っているけれども、しかしヒトラーによる反ユダヤ主義を危惧する立場にあったと思います。

 何が言いたいかといいますと、日米交渉の担い手は、アメリカについてもドイツについてもよく知っており、双方の陣営のことがかなり見えていた人たちだったのに、彼らをもってしても交渉は不首尾に終わってしまったということです。このように、外交的な解決の可能性がかなり狭められていたのだとすれば、早い時点で、戦争回避の途は狭まっていたのかもしれません。

「独ソ戦」が日米交渉での妥協を難しくした――井上寿一(学習院大学法学部教授)

 対米戦争の回避可能性あるいは戦争への分岐点をめぐって、あらゆる角度から膨大な研究の蓄積があります。今日では真珠湾攻撃の直前でも日米開戦回避の可能性はあったというのが通説だと思います。

 暫定協定案を出して、あの案で数カ月でも開戦の時期が延びればどうなったでしょうか。独ソ戦がドイツに不利な展開になり、南方では雨期に入り、雨期に入ると軍事作戦行動をとりたくてもとれなくなります。そうなるとあらためて開戦の意思決定をおこなうのは容易ではなかったはずです。

 暫定協定案ではあまりにも直前に過ぎるので、もう少しさかのぼって考えますと、南部仏印進駐が大きな転換点だったのではないでしょうか。

 南部仏印に日本軍が進駐してしまいますと、まだフィリピンはアメリカの植民地でしたので、南部仏印からアメリカの植民地のフィリピンを直接、空爆できるようになります。シンガポールにも易々と行けるようになります。要するにアメリカ・イギリスが日本の直接的な軍事的脅威を感じられるようになったのは南部仏印進駐でした。

 別の言い方をすれば、南部仏印進駐ではなく北部仏印進駐までにとどめておけば、日米交渉によってやりようもあったと考えます。

 付言しますと、独ソ戦の開始は、日米の思惑をいよいよ遠ざける大きなきっかけだったようです。日本側からすると、独ソ戦が始まってドイツがソ連も叩くから日本は強くなる、日本の外交交渉上の立場が強くなると松岡洋右たちは都合よく考えました。

 ところがアメリカ側からすると、ドイツはソ連と戦争をしなければまだ国力はあったけれども、ソ連とも戦争しなければならなくなった。その弱くなったドイツと同盟関係を結んでいる日本の外交ポジションは下がった。もはや日米交渉で譲歩する必要はないと。このようにアメリカは独ソ戦によって強気になりました。

 対する日本側も強気になりました。これでは交渉はまとまりません。要するに独ソ戦に対しての日米の思惑の違いが日米交渉をいよいよ遠ざけ、妥協を難しくしていったという意味で、独ソ戦の開始も大きな分岐点の一つだったと考えます。

南部仏印進駐がアメリカに脅威を与えた――戸部良一(防衛大学校名誉教授)

 大きく言えば、日米戦争が避けられなくなった主な原因は、日本が南に武力を以て進出したことと、それからドイツと同盟を結んだことでしょうね。それがなければアメリカとの戦争は避けられたかも知れません。

 ドイツと同盟を結ぶということは、当時ドイツは世界の秩序を壊そうとしていたわけですから、壊そうとする国と手を結んだことになります。国際秩序を力で以て変更しようと考えている国同士が手を結んだということがアメリカにとって大きな脅威になったのだろうと思います。

 もう一つは、敢えて言いますと、日本が中国で侵略的な行動を繰り広げている間は、アメリカにとって実は国益上そんなに大きな脅威ではありませんでした。

 勿論中国に在住するアメリカ人の財産や生命が脅かされていたことは確かで、人道的な点からもアメリカは日本に対して侵略行動を止めろと再三非難していたことは間違いないのですが、日本が中国にとどまっている限りおそらくアメリカは日本と戦おうとはしなかったと思います。

 しかし日本が力を以て南に出て来るということは、一つはフィリピンを脅かすことになり、もう一つはイギリスとインド、シンガポール、マレー、オーストラリア、ニュージーランドなどとの連絡路に大きな脅威を与えることになります。

 当時ドイツと戦っていたのはイギリスだけですから、イギリスはアメリカにとって国防の第一線でもあったわけです。そのイギリスとイギリス自治領・植民地との連絡路を脅かす日本の行為は、アメリカとしてはやはり許すことができない。

 イギリスに今後もドイツと戦ってもらうためには、この連絡路を保持しておかなければならない。それゆえ日本の南進はアメリカにとって現実の脅威になったのだろうと思います。

 この二つが日米関係をより難しくした根本的な原因だと思いますし、戦争に向かう大きな要因として作用したことは間違いないのですが、でも1940年9月に北部仏印に進駐し、日独伊三国同盟を結んだからといって直ぐ戦争が不可避になったとは思いません。

 この二つについて、アメリカとの間に何らかの妥協あるいは了解をつくることができれば、戦争は回避できたでしょうね。それは不可能ではなかったと思います。しかし、日本は1941年7月に南部仏印に進駐して、妥協には逆行する選択をしてしまいました。

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