「聞き上手」の首相は、いかにして日本を全面戦争に引きずり込んだのか

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 岸田文雄首相のアピールポイントは「人の話をよく聞く」ことであるという。たしかに近年は、優れたリーダーの資質として「聞き上手」であることが挙げられることが多い。

 しかし、かつて天皇をはじめ多くの人から「聞き上手」と評価された近衛文麿(このえふみまろ)首相が、日本をドロ沼の戦争に引きずり込んでしまったことも、忘れないでおいた方がいいだろう。

 防衛大学校名誉教授の戸部良一氏は、『日本の戦争はいかに始まったか―連続講義 日清日露から対米戦まで―』(新潮選書)の「第四章 支那事変はなぜ起きたのか」において、日中の局地的な紛争を全面戦争へとエスカレートさせてしまった近衛文麿の政治指導スタイルを問題視している。同書から一部を再編集してお届けしよう。

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北支派兵

 盧溝橋事件後のエスカレーションについて考えてみましょう。

 1937年7月7日夜から翌朝にかけて盧溝橋事件が起こった後、日本政府は7月11日に満洲、朝鮮、さらに日本本土からの援軍派遣を決定しました。しかしながらその後しばらく日中間に大規模な軍事衝突は起こっていません。

 日本軍が本格的な武力発動に訴えたのは7月28日です。そして華北の事態は日本軍による北平・天津地域の攻略によって一時小康状態になります。ところが8月13日戦火が上海に飛び火し、この軍事紛争は全面戦争の様相を帯びていきます。

北平での武力衝突

 7月21日、今度も現地から派兵の必要はないという判断が報告され、陸軍は動員派兵を保留します。ところが25日の夜になって北平近郊の廊坊(ろうぼう)で衝突が起こる。

 26日夜には北平の広安門でやはり武力衝突が起こります。陸軍は27日、あらためて内地からの動員派兵を決定します。そして28日に現地での本格的な武力発動がなされることになるわけです。

協議・議論の形跡なし

 その間、閣議では派兵問題を協議した形跡がありません。23日に第71特別議会が召集され、定例閣議が開催されますが、そのときは首相の所信表明演説の案文を議論しただけでした。24日にも臨時閣議が開かれますが、この時も所信表明演説の文言について議論をして、結局華北問題についての議論はなされず、26日の月曜日にも閣議が開かれましたが、ここでも派兵問題は議論されません。

 27日火曜日8時半から開かれた閣議で陸相は内地師団の動員派兵を報告します。海相が武力行使の目標は何かと質問すると、陸相は「平津地域の第29軍が相手である。北上してくる中央軍との衝突の可能性も高い」と答えます。海相は「それでは全面作戦になる危険性が高い」と述べたとされています。

 私が重要だと思うのは、実はこの日、7月27日に閣議が内地師団の動員派兵を決定したわけではないということです。実は内閣は20日に既に動員派兵を決定しており、その実施の時期を陸軍に一任していたのです。

 以上の7月末迄の時期について日本政府の態度にはどんな特徴があったと見なされるでしょう

心理的威圧優先

 この時期の政府の対応として注目されるのは、中国を心理的に威圧しようという傾向が顕著だったことです。11日に首相官邸に各界の代表者を呼んで協力を要請したというのは、挙国一致の姿勢を示して中国側を心理的に威圧するという狙いがあったからでした。

 20日の閣議で米内光政(よないみつまさ)海相が「出兵は戦術上の要求が半分、Gestureが半分だ」と述べていることからも、出兵に心理的な威圧効果を狙うという点があったことが分かります。

大勢を圧した「拡大派」

「威圧を狙ったということは、威圧すれば中国は屈服するだろうという楽観論が有力であったことを意味します。当時、陸軍が出兵に反対する「不拡大派」と出兵を主張する「拡大派」とに分裂していたことはよく知られていますが、参謀本部作戦部長の石原莞爾(かんじ)を中心とする「不拡大派」を抑えて陸軍の大勢を圧したのは「拡大派」でした。

「拡大派」は全面戦争を唱えたわけではありません。内地から出兵して中国側に一撃を与えれば中国はすぐ屈服するだろうから、かえって事変は早く解決する、局地的に解決される、このように「拡大派」は主張したのです。当初、内地からの出兵に消極的だった政府首脳の大半も、最終的にはこの「拡大派」の判断とロジックを受け入れたことになります。

伝えられなかった動員留保

 もう一つ注目されるのは内地師団の動員派兵をめぐる動きです。内地師団の派兵は閣議で2度決定されながらその実施は2度保留されました。そして実施保留は中国側にはメッセージとして伝えられません。

 動員派兵がその威圧効果に重点を置いていたとすると、譲歩を示すような実施保留を相手側に伝えるのは避けるべきだと考えられたのでしょう。政府は事態楽観と威圧効果への期待に捉われて最後まで譲歩的なメッセージを出そうとはしなかったのです。

第二次上海事変勃発

 そして、第二次上海事変が発生したのです。
 
 上海での情勢悪化に伴い現地海軍部隊からは援軍の要請が相次ぎます。海軍の軍令部では陸軍部隊の派遣が必要であるとして、それを閣議で提議するように米内海相に求めます。しかしながら8月10日の閣議で、米内は上海派兵のために陸軍部隊を動員してほしいと要請しませんでした。

 おそらく海相は船津(ふなつ)工作と呼ばれる和平工作の進展に期待をかけていたのでしょう。ところが12日、現地から陸軍部隊の派遣が「緊要」であるという悲鳴に近い要請が来ます。米内はようやく12日に陸軍部隊派遣に同意します。その時点では船津工作の可能性がなくなったと米内にも見極めがついたのでしょう。12日の夜9時に米内は緊急四相会議の開催を要請し、四相会議は上海への陸軍部隊派遣について合意します。

 翌13日午前9時40分に正式な閣議が開かれ、居留民保護のために陸軍部隊を上海に派遣すること、派遣部隊の規模や派遣時期については参謀本部と軍令部とが協議して決めること、という方針が決定されます。そしてこの日、13日、ついに現地上海で武力衝突が発生してしまいます。

「中国軍を徹底的に叩くべし」

 興味深いのは14日、土曜日の夜の閣議です。夜10時半に開かれた閣議は上海に医療救護のために救援船を派遣することを決定しました。このとき米内海相は上海の事態を説明し、こうなったからには事態不拡大主義は消滅したと主張します。

 米内は全面作戦となった以上、実施するかどうかは別として南京攻略が「主義」として当然ではないか、と杉山元(はじめ)陸相に問いかけます。杉山は、「南京攻略については参謀本部と協議しなければ何とも言えないけれども、ソ連に対する考慮から多数の兵力を用いることはできない。実施できないことは主義としても同意できない」と答えます。

 なお風見章(かざみあきら)内閣書記官長の回想によると、鉄道大臣の中島知久平(ちくへい)は「この際中国軍を徹底的に叩きつけるべき」だと述べ、逓信大臣の永井柳太郎はそれに相槌を打ったとされています。

とりとめのない議論

 その後、この閣議では陸相が「この際政府声明を発表して日本の立場を内外に明らかにすべきではないだろうか」と述べ、それに閣僚の多くが同調しました。

 そして政府声明の案文をめぐってとりとめもない議論が続き、ようやく案文が纏まったとき、広田弘毅(ひろたこうき)外相は「これを今すぐに発表しなくてもいいのではないか」と疑問を呈しましたが、風見書記官長は「閣議がこれだけ長引いてしまうと、救援船派遣を決定したというだけでは誰も信用しない、かえって変な憶測や誤解を生んで悪影響を及ぼすのでこの際直ちに発表するほうが望ましい」と論じ、結局発表することになります。

暴支膺懲

 こうして8月15日、日曜日の午前1時10分、真夜中に上海出兵に伴う政府声明が発表されます。この政府声明は「支那側が帝国を軽侮し不法暴虐至らざるなく全支に亘る我が居留民の生命財産危殆(きたい)に陥るに及んでは、帝国としては最早隠忍其の限度に達し、支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲し以て南京政府の反省を促す為今や断乎たる措置をとるの已やむなきに至れり」と強調します。

 日本には「領土的意図」はないとか、「無辜(むこ)の一般大衆」に敵意はない、とも謳っていましたが、隠忍の限度に達したとか、断固たる措置をとるとか、その声明の趣旨が強硬になったことは否定できません。

 9月4日に始まる臨時議会では臨時軍事費が成立し、様々な戦時立法がなされるようになります。こうして日本は戦時態勢に移行して行きます。

近衛の演説

 9月5日、近衛首相は第72議会の演説で次のように述べています。

「隠忍に隠忍を重ねて参りました我が政府も、是(ここ)に於て従来の如く消極的且局地的に事態を収拾することの不可能なるを認むるに至りまして、遂に断乎として積極的且全面的に支那軍に対して一大打撃を与ふるの已むなきに立至りました次第であります。……今日此際帝国として採るべき手段は、出来るだけ速(すみやか)に支那軍に対して徹底的打撃を加へ彼をして戦意を喪失せしむる以外にないのであります。かくして尚支那が容易に反省を致さず、飽く迄執拗なる抵抗を続くる場合には、帝国として長期に亘る戦も勿論辞するものではないのであります。……」

事変から戦争へ

 中国軍に対して積極的かつ全面的に打撃を与えるとか、長期戦を辞するものではないという近衛のこの演説から見る限り、紛争はもはや事変ではなく戦争と捉えられていたことが分かります。

 以上の8月段階の政府方針決定のヤマとなったのは上海出兵ですが、7月段階の出兵時にはそれなりの躊躇や慎重さが見られたのに比べると、8月の上海出兵の決定は当初船津工作に及ぼす影響を懸念したことを除けば、あまり慎重さは見られません。船津工作に期待して慎重論を唱えていた米内海相が出兵に踏み切った後、内閣では出兵反対論はほとんど見られなくなりました。

見当たらない近衛自身の意見

 上海出兵と並んで重要なのは不拡大方針の放棄や支那事変という呼称の決定ですが、これらを決定した8月17日や9月2日の閣議の協議内容に関する記録が見当たらないので、この決定をめぐってどのような賛否の議論が交わされたのかを明らかにすることはできません。

 注目されるのは、現在利用可能な記録に基づく限り、閣議における近衛首相の発言がほとんど聞こえてこないことです。

 おそらく近衛はあまり発言しなかったのでしょう。近衛は閣僚たちの意見を聞き、また議会の動向や世論の動きを観察しながら、その大勢に乗ろうとしたのだろうと思います。9月の近衛の議会演説は、閣内の強硬論や国内の強硬論を反映したものと考えられます。

 このように強硬論を安易に反映する近衛文麿の政治指導スタイルこそ、盧溝橋事件から全面戦争に至るエスカレーションを引き起こした重要な要因の少なくとも一つであった、と言うことができるのではないかと思われます。

※波多野澄雄・戸部良一編著『日本の戦争はいかに始まったか―連続講義 日清日露から対米戦まで―』(新潮選書)から一部を再編集。

デイリー新潮編集部

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