一瞬でガレキになった歴史都市…トルコ大地震から半年、被災地を「食べ歩く」
ガレキの山の中心部
翌日の6月11日。高速バスで2時間かけて、アンタキヤに向かう。ガジアンテップ県の隣のハタイ県の県庁所在地。街の歴史は紀元前までさかのぼり、セレウコス朝シリア王国の首都として栄えた「文明揺籃の地」だ。大地震では、市内を流れるオロンテス川の東岸に位置する旧市街を中心に、甚大な被害が出た。地震の死者約5万人のうち、アンタキヤを含むハタイ県が2万人以上を数えたと報じられている。
バスは、シリアで現在唯一、戦闘が続いている北西部イドリブ県をかすめるように、快適な舗装道路を疾走する。シリア側も地震で大きな被害が出たが、実態がよく分かっていない。内戦をめぐる国内外の勢力の対立が、被災者支援を停滞させている。
バスの車窓からの風景は、ガジアンテップ市内とは様相が一変。民家の横には必ずといっていいほどテントが建っている。プレハブの仮設住宅が建設された「街」もあちこちにできていた。壁がひび割れ、一部は崩壊し、放置されたままの無人のマンション群。昔、パレスチナ自治区ガザで見た、イスラエル軍に空爆された直後の街の光景を思い出す。
アンタキヤのバスターミナルにバスが滑り込む。ビルの一部の壁は崩れ落ち、大きな看板が床に横倒しになっている。とてもすぐに復旧できそうもない状況だ。「トイレはないぞ」と職員はぶっきらぼうに言う。「これでは、中心部はどうなっているんだろう」と心配が募るが、とにもかくにも客待ちしていたタクシーに乗り込む。
運転手に「中心部のモスクのあたり」と伝えると、「無理、無理」と言わんばかりに首を振った。だが、とりあえず、行って確認してみないことには何も始まらないのでは。「いいから、ホテルの予約はあるから」と押し切って乗り込む。
このホテルというのは、日本からホテル予約サイトで取ったものだった。そのサイトで検索すると、アンタキヤ中心部に何軒かの予約可能なホテルが表示された。「それなりの数のホテルがもう営業を始めているんだろう」と思って、サイト上のスコアが高いホテルを2泊予約した。地震前、アンタキヤには、温暖な気候、歴史遺産、個性的な食文化を求めて観光客が多く詰めかけていた。そんな中で増加していた「ブティックホテル」と呼ばれる小型ホテルのひとつだ。まず、チェックインし荷物を置こうとホテルを目指したが、自分はとんでもない思い違いをしていたことが分かった。行けども行けども、崩壊したビルとガレキの山の連続なのだ。
半年前とは変わり果てた中心部の様子にがく然とする。高速バスでたどり着いたアンタキヤの中心部は、がれき撤去の作業員以外にはひと気がない「ゴースト・タウン」。スマホのGPS機能でホテルの場所を確認し、近くで降ろしてもらう。強風で、ガレキの山から土ぼこりが舞う。コロナ対応で一応、持ってきたマスクが皮肉にも役立つ。
予約したブティックホテルの看板が確認できた。当然営業はしておらず、鉄の扉は閉ざされていた。呆然と立ち尽くしていたら、復旧作業員らしき男性が「どうした?」と近づいてくる。英語を片言だが話す。「このホテルに泊まろうと来たんだけど」と言うと、「はぁー?」とけげんな顔をされる。
結果的にこの男性のおかげで、ガレキの街に置き去りという事態は避けられた。アフメット・ギョゼン氏。アンタキヤ郊外に在住のトルコ人男性。市内の会社に勤めるサラリーマンだが、当局から頼まれて、ガレキの撤去作業を手伝っているという。彼の自家用車に乗せてもらい、街の北にある大型ホテルへ向かう。そこは営業していなかったものの、開いているという別のホテルを教えてもらう。市街地の南。中心部から車で15分ほどの山中にあるリゾートホテルだった。地震の被害はほぼないという。アンタキヤで今、営業しているホテルは、ここともう一軒だけだそうだ。日も暮れはじめ、とりあえず、ここで一泊するしかなくなった。部屋からは、弱々しい明かりのアンタキヤの夜景が見えた。
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