没後50年「ブルース・リー」 映画「燃えよドラゴン」、「アチョー、アチョー」の怪鳥音はなぜ独特だったのか

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ワシントン大学で哲学を専攻

 1940年11月27日、米国を巡業中だった広東歌劇の名優とその妻との間に、次男としてサンフランシスコで生まれたリー。本名・李振藩(リ・ジュンファン)。その後、イギリス植民地下の香港に帰国し、子役として活躍。性格は明るく朗らかで、家族に対してはとても優しかったという。

 一方、相当なやんちゃ坊主で、いたずらが大好き。10代になると喧嘩やストリートファイトに明け暮れ、武術・詠春拳の達人イップ・マン(葉問)に学ぶ。道場での練習の成果を、喧嘩や他流試合での実戦で発揮するためだった。ボクシングの試合にも出場し、それまで連続してチャンピオンを獲得していた英国人を1ラウンドでノックアウトしてしまったというから驚いてしまう。

 だが、1958年、18歳で渡米したからは一変する。ワシントン大学で哲学を専攻。相手を打ち負かすだけではなく、武術に込められた精神性を追い求めるようになった。

 1964年、カリフォルニアで開かれた国際空手選手権で模範演技を披露した。圧倒的なパワーとスピードに、観衆から驚きの声と拍手が沸いたという。片手の親指1本で体を支え、腕立て伏せをする映像も残っているが、その身体能力はまさに超人である。

 東洋思想が色濃く反映された武道哲学に、多くのハリウッドスターが共鳴し、弟子入りした。ジェームズ・コバーン(1928~2002)は「ブルースは教えなかった。自分で進歩できるような環境をつくってくれた」、スティーブ・マックイーン(1930~1980)は「彼の頭の良さは、己を知ることを通して獲得したもの」と語っていた。

 風を受けてしなる竹を私は思い起こす。竹は風に任せてしなることで持ちこたえる。つまり「硬直したものは砕けやすい」のである。

 そういえば「燃えよドラゴン」でも、喧嘩を売ってきた腕自慢の拳法家から「あなたの流儀は?」と聞かれ、相手にしなかった。挑発を軽く受け流し、「戦わずして勝つ」とリーは冷静に答えていた。まさに、柔よく剛を制すである。

宮本武蔵に傾倒

 それにしても、リーは死というものを、どの程度意識していたのだろうか。亡くなる2カ月前の1973年5月、撮影中に昏倒し、一時、意識不明になった。渡米して精密検査を受けるが、何の異常も見つからなかったという。

 宮本武蔵に傾倒し、「五輪書」を愛読していたといわれるリー。思えば、いつ自分に死が訪れてもいいと覚悟を決めていたのではないか。

 そのことは「燃えよドラゴン」をもう一度見てみるとよく分かる。あの独特な怪鳥音は、ほかの作品とは違い、悲壮感がたっぷりこもっていた。

まるでリー自身が、32歳にして燃え尽きようとしている命を必死に燃え立たせながら、咆哮しているように聞こえる。

 まさに、闘う神、闘神である。

 五重の塔を模したセット内で約2時間のアクションシーンを撮影した映画「死亡遊戯」も、同じように「死」の気配が漂う。まさに英語で「デス・ゲーム」。リーの急逝により未完となったが、代役を起用したり、編集作業を工夫したりして1978年に完成した。

 リーは生の中に死を見出し、死の中に生を見出していたのだろう。生と死が互いに影響し合い、一体になってこそリーの武術は成立していた、と言ってもいい。「メメント・モリ(死を思え)」ということをいつも意識していた武道家であり、思想家だったのだろう。

 リーに関する考察は次回も続く。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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