「お兄ちゃん、金ないんだろ」――生まれて初めての挫折を経験した水谷豊 新聞紙にくるまって公園で夜を明かした家出旅の顛末

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 13歳で子役デビューし、手塚治虫の漫画が原作のドラマ「バンパイア」で主役を演じ、中・高校生時代に映画4作出演、と順風満帆に見えた芸能活動。そんな若き俳優・水谷豊の胸中に兆したのは、「芸能界は自分がいる場所ではないかもしれない」という思いだった。

「こんなに自分の過去を振り返ろうとしたことは一度もなかった」という初めての著書『水谷豊 自伝』(水谷豊・松田美智子共著/新潮社)から、芸能界とは別の道を模索する中で経験した苦い思い出と意外な顛末を紹介する。

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 憧れていたテレビの中に入ることができ、映画の世界も経験した水谷は、新たな世界を見つけるべく、高校3年で芸能生活にけじめを付けようと考えた。

「僕は『劇団ひまわり』のあと、16歳のときから、『小日向企画』というプロダクションに所属していたので、そこの社長に相談したんです。『芸能の仕事を辞めて、大学に進学しようと考えている』と。社長は昔、映画俳優が所属する事務所の代表だった人で『豊ちゃん、それは賢明な考えだよ。この世界は第一線でずっと行けるというのは、ほとんどないことなんだ。90パーセント以上の人が落ちていく世界だからね。君が仕事を辞めて大学を受験するというのなら、僕は応援して送り出すよ』と話してくれた」

 水谷はプロダクションを辞め、アメリカの大学へ進学しようと決意した。米軍基地の近くに住んで、その文化に影響されたことや、本国には、立川基地で知り合い、その後、家族と共に移住した友人がいるということもあり、留学を考えたのだ。高校の担任に志望を話して、留学のための準備も始めていた。ところが──。

「父の会社が経営破綻して、アメリカ留学どころではなくなったんです。それで日本の大学を受けることにした。なぜか、僕はネット上で法政大学や東京商船大学を受験したことになっていますが、まったく別の大学で、学部は政経学部でした」

 受験には自信があった。試験が終わった当日、担任の坂本(静子)先生に「受かりました」と電話を入れたほどだ。

 だが、結果は不合格で、水谷は生まれて初めての挫折を味わうことになった。

「小学校、中学校、高校と一緒だった友人の石井健二に、僕が『俺、試験に落ちちゃったよ』と話したら、『えっ、お前は受かると思っていたのに』と驚いて泣いてくれたんです。石井本人は志望校に受かっていて、『また来年があるから』と慰めてくれた。優しくて、男らしい奴でね。当時は一浪二浪は普通のことだったので、まあまあ気楽な感じでいたんだけど、家にいるうちに、こんなことしていていいのか、と思うようになって」

行くあてもない家出

 浪人生活を覚悟していたものの、友人たちは新たな一歩を踏み出していた。自分はこのまま家に籠って受験勉強をするしかないのか……。5月に入ってからは精神状態がおかしくなり、衝動的に家を飛び出した。行くあてもない家出である。

「ナップザックに洋服だけ詰めて、ひたすら歩きました。方向音痴のこの僕が」

 歩いているうちに八王子に着き、まだこんな所かと思い、さらに頑張って歩くと、高尾山に入った。すっかり日が暮れていて、気温も低くなっていた。

「疲れてしまって、砂利道の途中で座り込んだけど、とにかく寒いんです。うとうとすると、寒さで凍え死ぬ夢を見るの。で、持って来た着替えのズボンを重ねた。他にはアロハと夏物のTシャツだけしかなくて、全部を着込んでも寒い。それで寝るのはまずいからヒッチハイクをしようと思って、通りかかった車に手を挙げたけど、停まってくれないんですよ。山の中だから、人影を見るだけでも怖かったんでしょうね」

 仕方なく、夜通し歩き続けると、神奈川の相模湖近くに着いた。幸運だったのは、後ろから来た車が停まり、運転していた男性が声を掛けてくれたことだ。

「『お兄ちゃん、何しているの』と聞かれたので『散歩です』と答えたら、『俺は釣りに行くんだけど、よかったら乗らない』と言われて、釣り場まで乗せてもらいました。で、そのおじさんが釣りをしている間に、僕は隣で眠ってしまった。昨夜一睡もしていなかったから」

 目覚めたのは夕方近くで、また日が暮れていた。

「帰り際、おじさんに『お兄ちゃん、家はどこ。送っていくよ』と言われたけど、いや、送られたら困るのよね。家出しているんだから。でも、僕の様子を見て、何かおかしいと気付いていたんでしょうね、おじさんが『じゃあ、今日は俺の家に泊まるか』と言って、八王子の自宅まで連れて行ってくれたんです」

 おじさんの家には奥さんと赤ちゃんがいた。水谷はその家で夕食をご馳走になり、一泊して朝食を食べたあとで「じゃあ、行きます」と挨拶した。

「そしたら『お兄ちゃん、金ないんだろ』と2000円渡してくれて、親切な人でしたね」

 2000円を手にした彼は、いったん立川市に戻り、高校時代の同級生が勤めていたボウリング場へ顔を出した。そこでコーラを飲みながらボウリングに興じ、支払いを終えたときには、残額が数百円になっていた。次に向かったのはパチンコ店である。

「おじさんからもらった大事な金なのに、どういう神経をしていたんでしょうね。でも、パチンコをやると、出ちゃったんですよ、玉が。信じられないくらい一杯。店内に流れていたのが、いしだあゆみさんの『ブルー・ライト・ヨコハマ』で、あの曲を聞くと、今でもパチンコ店の情景を思い出しますね。それで、玉を換金したら、6000円くらいになったのかな。その日は銭湯に行ってから、新聞紙を沢山買って、それを敷いたり、くるまったりして公園で野宿しました。家に帰る気はないからね。次の日は10時からパチンコをして、こんなことあるのかってくらい、また玉が出たの。もう、好きなものを食べて、オールナイトの映画も観ちゃってね。次の日はさすがに無理かと思ったけど、また一杯玉が出て、3日間で合計1万6000円くらいになった。おじさんの2000円が8倍に増えたんですね」

 その金を家出の軍資金に、彼は電車に乗り、山中湖へ向かった。中学の頃、山中湖のレストハウスに泊まったことがあり、いい所だという印象が残っていたからだ。

 周辺を歩いてアルバイトを探すうちに、3階建ての大きなレストハウスを見つけた。

「山中湖サービスセンター」という建物で、広い駐車場があり、そこに観光バスや乗用車が停まっている。支配人とアルバイトの交渉をすると、人手不足ということで、雇ってくれることになった。1階にある店で土産物を売ったり、レストランの手伝いをしたり、バスの運転手を控室に案内するという仕事である。

「夏休みになると大学生のアルバイトがたくさん来て、結構忙しかったですね。そこで住み込みのアルバイトを2カ月くらい続けて、7月14日、僕の19歳の誕生日に、ふとお袋のことを思い出したので、家に電話を入れたんです」

母の心痛

 水谷が家出したあと、母はあらゆる友人知人に連絡して、息子を探し回った。心痛のあまり、頭髪が真っ白になるほどだったという。

「電話したときはね、わりと平気な感じだったんですよ。『今まで一体何をしてたんだ』と責めたりはせず、『元気だったの? こっちのことは気にしなくていいんだよ。でも、そろそろ帰ってきたら』なんて、普通の会話だった。僕が、『8月一杯という約束で働いているから、すぐには無理』と言ったら、お袋が、『ちょっと、京都の叔母ちゃんの具合を悪くしてもいいんじゃないの』と。それでレストハウスの方に、『すみません、京都にいる叔母が危篤という連絡があったので』と話して、辞めさせてもらいました」

 あとで分かったことだが、母は息子が電話してきたあとで髪を染め、白髪を隠していた。

「そういう(母の)思いやりには、当時の僕は気付かなかったんです」

 自宅に戻った水谷は、小遣いを稼ぐために新たなアルバイトを探した。父親の失職という家庭の事情を考えれば、大学進学のための学費も蓄える必要がある。かといって、芸能の世界に戻る気持ちはなかったが、運命的ともいえる人物が登場する。

※水谷豊・松田美智子共著『水谷豊 自伝』から一部を抜粋、再構成。

デイリー新潮編集部

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