水谷豊が初めて明かす「赤い激流」撮影秘話 宇津井健がささやくジョークに笑いが止まらない

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 1970年代後半、お茶の間をわかせたドラマ「赤いシリーズ」。山口百恵など当時人気絶頂のスターが各作品で主役を演じたことから大ヒットシリーズとなった。その中でも最高視聴率をたたき出したのが、俳優・水谷豊(当時25歳)主役の「赤い激流」だ。ショパンの名曲を情熱的に弾きこなすピアニスト役・水谷の演技に加え、実は台本が最終話まで決まっていなかったというから、展開に手に汗握っていたのは視聴者だけではなかったようだ。

「こんなに自分の過去を振り返ろうとしたことは一度もなかった」という初めての著書『水谷豊 自伝』(水谷豊・松田美智子共著/新潮社)から、懐かしの名ドラマの舞台裏を紹介する。

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宇津井健の“意外な面”とは

 さらに一人、20代の水谷に大きな影響を与えた俳優の中に、宇津井健がいる。

「僕ね、当時25歳くらいだったけど、将来は宇津井さんみたいな大人になりたいと思っていたの。ユーモアがあって、大好きな人でした」

 31年生まれの宇津井健は、早稲田大学在学中の52年に「俳優座」に入団。同期に仲代達矢や佐藤慶がいる。その後、新東宝に入社し、新東宝が倒産したのちは大映に移籍。フリーになってからはテレビ出演を増やし、「ザ・ガードマン」(TBS系列 65~71年)、「赤いシリーズ」(TBS系列 74~80年)などで主役を演じた。

 宇津井と水谷の出会いは「赤い激流」(77年)での共演だった。水谷は天才ピアニストの田代敏夫役、宇津井はその義父で、音楽大学の助教授役を演じた。

「最初にお会いしたのは、乗馬クラブでした。宇津井さんは馬がもの凄く好きで、馬術歴も長い。それで、撮影に入る前に、一緒に馬に乗ろうと誘われたんです」

 宇津井の乗馬歴は、早稲田大学の馬術部に入部したときから始まり、60年間に亘る。一時はアラブ系の馬を所有したこともあり、乗馬術は芸能界屈指だったといわれている。

「後日、『赤い激流』の芝居で僕が『自分は、馬で言えば血統のいいサラブレッドじゃない。みんなと違って雑種なんだ』みたいな台詞を喋るときに、宇津井さんが『こういう台詞は嫌いだ。血統がどうとかで馬を差別すること自体がおかしいんだよ』と話されたんです。その言葉を聞いて、宇津井さんの人となりが分かりました」

「ザ・ガードマン」の高倉隊長役や、「渡る世間は鬼ばかり」(TBS系列 2006~13年)の岡倉大吉役など、出演したドラマでは実直で生真面目な役柄が多く、紳士と評されることが多い宇津井だが、意外な面があった。

「『赤い激流』はとにかくピアノを弾くシーンが多くて、コンクールの課題曲になる『ラ・カンパネラ』とか『英雄ポロネーズ』とか『テンペスト』とかの曲が繰り返し流れていましたよね。当時ピアノをやっていた若い人たちの間でも、このドラマが話題になって、課題曲の楽譜が売り切れるという現象が起きたそうです。それで、田代敏夫が先生からピアノのレッスンを受けているシーンのときでした」

 水谷がピアノを弾いている間、宇津井はピアノの側面を専用の布で拭いていた。拭きながら、励ましの台詞を話すシーンだった。

「宇津井さんが真剣な表情で、『敏夫君、今度の全日本ピアノ拭きコンクール、頑張るんだぞ』と言うんですよ。本当は全日本ピアノコンクールなんだけど、そんなジョークをリハーサルの合間に、僕だけに聞こえるように話すんです。もう可笑しくて、吹き出しちゃった」

 水谷は「笑い過ぎて、芝居にならなかった」という。

“ピアノの神様”が降りてきた瞬間

 ピアノを弾くシーンについては「精神状態がおかしくなるほど難しかった」と振り返る。

「音はすでに(プロのピアニストが弾いたものが)用意してあるので、指のポジションを教えてもらうんです。ポジションと曲のリズムが合わないと、音が使えない。本当に弾いているようにポジションを覚えるのは難しくて、猛練習しましたね。僕に付いて教えてくれたのは、桐朋学園大学音楽学部の熊谷洋(くまがいひろし)という先生で、素晴らしい方でした。僕は熊谷先生に習って、『エリーゼのために』が3日で弾けるようになったんですよ。みんな『初めてピアノを習った人間にそんなことはできない』と信じてくれなかったけど」

 なぜ短時間でそんなことができたのかは、のちになって分かった。

「『陽のあたる教室』(2000年)という舞台公演で、またピアノを弾くことになって、そのときも思ったんだけど、大人って何かやるときに、まず頭を使うじゃないですか。でも子供は頭を使わずに身体で覚える。とにかく身体が覚えるという感覚を一番にして、僕も子供になってピアノに向かうことだと」

 舞台公演のとき、水谷は47歳になっていた。「陽のあたる教室」での役は学校の音楽教師で、生徒に音楽を教えるときに、ピアノを演奏する。

「テレビと違って舞台だから、本当に僕がピアノを弾かなければいけないんですよ。5、6曲弾いたかな。そのときも桐朋学園大学の同じ先生に習って、舞台の稽古に入るまでは、2、3カ月しか時間がなかったけど、交響曲とか、ジャズとか、ブギウギとか、生徒たちとセッションする曲とかを練習してね。生徒たちに教えるので、語りかけながら弾くんです。舞台は人の音を被せることができない。僕の生演奏です」

「赤い激流」から、23年。離れていたピアノの前に座った水谷だが、様々なジャンルの曲を観客が見守る中で生演奏するのは、かなりのプレッシャーだった。

「最初の頃、ピアノを弾こうとすると、金縛りに遭ったんです。身体は固まるし、手は震えるし。でも、お客さんが待っているから弾かなきゃいけない。シーンとしている場で、ピアノをダーンと始める。自分で金縛りを解くしかないから、心の中で『おまえに負けないぞ』『おまえには負けないぞ』と言い聞かせるんです」

 初日から、極度の緊張のあまり、ピアノを弾こうとすると、手がぶるぶると震え、身体をギュッと掴まれる感覚になり、その状態が何日も続いた。弾いているうちに金縛りが解けていくのだが、精神的なプレッシャーが解けることはなかった。

「だけど、東京公演が終わって、大阪公演が始まったときに、なんでこんなに思い通りにピアノが弾けるんだろう、という日があったんですよ。今日はどうしたんだ、俺って感じで、どんどんピアノが弾けちゃう。イメージした通りの音が自由自在に出てくる。金縛りにはならなかったし、弾くのが楽しくなって、ウキウキしちゃうくらいの感じでね。そのときのことを、知り合いのピアニストに話したら、『一生に何回か、そういうことが起きるんだけど、もう経験したのか』と言われたの。その状態を『ピアノの神様が降りた』というんだって」

 舞台で演奏するためにピアノを購入した水谷は、あるとき、貧しくてピアノが買えない国があることを聞いた。子供たちの役に立つのなら、と寄付することにしたのだ。

「それ以後は、ピアノに縁がなくなりましたね。まったく触っていません」

 話を戻すと、「赤い激流」のストーリーについては、意外な秘話がある。

「最終話近くまで、誰が犯人か決まっていなかったんですよ。だから、小沢栄太郎さん、赤木春恵さん、岸惠子さん、堀内正美さん、竹下景子ちゃんも、登場人物のみなさんが怪しげな振舞いをするんですね(笑)。監督が堀内さんに『君、そこからこちらの方を覗いて、ちょっと怪しそうな顔をしてくれ』と指示して、堀内さんが『どうして、僕がそんな顔をするんですか』と尋ねていたのを覚えていますね。そのときはまだ、堀内さんが犯人になる可能性もあったから、監督は『いいからやってくれ』と答えていたけど」

 このドラマの撮影はかなりタイトだった。ギリギリのスケジュールで撮影しているので、放送に間に合わない可能性もあった。それがいい緊張感を生んだという。

「僕の前に(松田)優作ちゃんが『赤い迷路』(74~75年)をやっているでしょ。優作ちゃんがね、『あのシリーズの撮影がどんなに大変か、豊もやってみな。やってみたら、どれほど酷い現場なのか分かるから。寝る時間がないんだぜ』と話していたけど、本当にそう。徹夜に近い日が何日もあって、もう早く終わってほしい、と思うほど疲れていた」

 次回はどうなるか想像がつかないストーリー展開だったおかげか、「赤い激流」は、最終回が37.2%と、「赤いシリーズ」の中で最高視聴率を記録した。

「あのドラマで宇津井さんに出会えたし、そこからご縁がずっと続いて、よくしていただきました。大人には反撥することの方が多かったけど、あんなふうになりたいと思ったのは、宇津井さんが初めてでした。僕は出会いに恵まれていたなぁ、と思いますね」

三國連太郎からの忘れられないひと言

 ユーモア溢れる宇津井健との共演ではほのぼのとした気持ちに包まれた水谷だが、「赤い激流」の翌年、78年2月に放映されたドラマでは、真剣勝負に挑んだ。芝居に一切の妥協を許さない伝説の俳優、三國連太郎との共演である。

 テレビ朝日系列の土曜ワイド劇場「逃亡 雪原の銃声」で、水谷は銀行強盗を働いて逮捕される大学生、三國は逮捕した身柄を護送する刑事を演じた。護送の途中で、彼は刑事の拳銃を奪い、手錠に繋がれたまま雪原を逃亡する。途中で山小屋を見つけて押し入ると、小屋の主人の嵐寛寿郎と、孫娘の檀ふみがいた。

「三國連太郎さんとの共演は『逃亡』だけでしたが、僕の作品にあの三國連太郎さん、『鞍馬天狗』のあの嵐寛寿郎さん、そして檀一雄さんのお嬢さんのあの檀ふみさん、皆さん、“あの”がつく方々が脇を固めてくれたことに僕自身が一番驚いていたと思います」

 三國はすでに「飢餓海峡」(内田吐夢監督 65年)や「にっぽん泥棒物語」(山本薩夫監督 65年)の演技で高い評価を受け、毎日映画コンクールとキネマ旬報賞の主演男優賞を受賞し、日本を代表する俳優の地位を確立していた。79年公開の『復讐するは我にあり』(今村昌平監督)では、ブルーリボン賞、キネマ旬報賞、報知映画賞の助演男優賞を受賞する。

「ほとんどが雪の中での撮影でしたが、すべてにおいて本気を感じさせてくれる三國さんの芝居に、僕も本気で向かっていきました。緊迫感があり、充実した芝居の日々でした。撮影が進んでいたある日、三國さんから食事に誘われたことがありました。食事しながらいろいろなお話をしていたのですが、途中で三國さんが穏やかに微笑みながら、こんなことを言ってくれました。今回、出演を承諾した理由について、『僕は水谷豊という俳優に興味があったんだよ』と。僕にとっては忘れられないひと言になりました」

※水谷豊・松田美智子共著『水谷豊 自伝』から一部を抜粋、再構成。

デイリー新潮編集部

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