水谷豊が初めて明かす「傷だらけの天使」の忘れられない共演者――風呂場で背中を流し合ったり、化粧と仮装で驚かされたり、交際相手を紹介されたり

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 水谷豊の出世作は「傷だらけの天使」。ショーケンこと萩原健一の推薦で、彼の弟分を演じることになったのだ。萩原を呼ぶ「アニキ~」のセリフは大流行したが、不良役を軽快に演じきったこの作品で水谷は先輩たちと公私にわたって日々をともにし、俳優としての方向性にも大きな影響を受けることになる。

「こんなに自分の過去を振り返ろうとしたことは一度もなかった」という初めての著書『水谷豊 自伝』(水谷豊・松田美智子共著/新潮社)から懐かしの名ドラマの舞台裏を紹介する。

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 18歳で芸能界とは縁を切ると決めた水谷だが、周囲がそれを許さなかった。次から次へと出演が決まり、気が付けば1年のスケジュールがびっしり埋まっていた。

 なかでも水谷豊の名前を広く知らしめたのは、萩原健一と組んだ日本テレビ系列「傷だらけの天使」(74~75年)である。

 萩原が演じる木暮修と、水谷が演じる乾亨の二人を束ねる綾部情報社の社長役を岸田今日子が、その片腕・辰巳五郎役を岸田森(しん)が務めている。プロデューサーは、「太陽にほえろ!」で岡田晋吉と名を連ねた清水欣也。清水はこのドラマのあと、萩原が主演の「前略おふくろ様」(75~76年)や、水谷が主演の「あんちゃん」(82~83年)のプロデュースもしている。

 ファンの間で今でも語り草になっているのは、オープニングの木暮修の食事風景だ。白いヘッドフォンとゴーグルを付けた修は、冷蔵庫から食料を取り出したあと、牛乳瓶の蓋を口で開けて飲み、缶詰のコンビーフをそのまま齧る。魚肉ソーセージ、トマト、クラッカーなどを次々に頬張り、最後に牛乳を吹き出してしまう。これらのシーンが大野克夫作曲、井上堯之バンドによる軽快なテーマ曲に乗って流される。大野克夫も井上堯之も、萩原が所属していたPYG(「ザ・タイガース」「ザ・テンプターズ」「ザ・スパイダース」が結集したバンド名)のメンバーで、旧知の友人でもある。

「傷だらけの天使」は、萩原がドラマの企画段階から参加しており、木暮修と乾亨のコンビは、アメリカン・ニューシネマの名作「真夜中のカーボーイ」で、ジョン・ヴォイトとダスティン・ホフマンが演じたキャラクターをベースにしているという。木暮修の役は萩原に決まっていたが、乾亨の役は難航した。火野正平、湯原昌幸らの名前が挙がったものの、監督の恩地日出夫が「イメージが違う」と納得しなかったのだ。

 そんな時、萩原が挙げた名前が水谷豊だった。

 萩原は水谷について、著作『ショーケン』(講談社)の中でこう語っている。

〈誠実だし、ひたむきだし、いつも一生懸命にやる子だった。だから、推薦したんだ。豊ちゃんはいつも一生懸命だった。必死になってセリフを覚えてくると、ぼくが時々、全然違うことを言うじゃない。そうしたら、あの目をまんまるにしちゃってさ。あのころ、豊ちゃんは役者をやめようと思っていたそうだ。そこへ「傷だらけの天使」の話が来て、やめるのはこれをやってからにしよう、と考え直したんだって〉

萩原さんはほとばしる感性の人

 水谷にとって、萩原との関係はスキンシップを伴うものだった。

「番組が始まってから、萩原さんに『泊まりに来いよ』と誘われて、なんどか家に行きましたね。最初の奥さんの小泉一十三(ひとみ)さんと一緒の頃でした。『豊、風呂に入ろう』と言われて、風呂の中でいろいろな話をしたり。食事をご馳走になったりしました」

 水谷と萩原は、「太陽にほえろ!」以来の共演で、気心が知れた関係になっていた。

「会っているときは意識していないんだけど、過ぎてみると、その時々で経験したことが残っていて、影響を受けていたことが後から出てくる。優作ちゃんに会ったことも、萩原さんに会ったこともそう。それらの積み重ねですね」

 歌手でもある萩原の演技は独特で、これまでの共演者とは芝居が違っていた。

「萩原さんの近くにいて感じたのは、常に何かが弾けるような、何処にも安住しない、まさにほとばしる感性の人だったということです。とにかく攻めてくる、その攻め方が面白いんです。ですから僕の方の受けの芝居も当然面白くなる。『傷だらけの天使』は、割と好き勝手にやらせてもらっていたけど、それぞれが芝居のアイデアを考えてきて、それをみんなの前で披露することも楽しかった。そんな二人のコンビネーションが、後々語り継がれる作品になった理由のひとつだったのではないかと思います」

ファンの間で語り草になっている「最終話」

 最終話の「祭りのあとにさすらいの日々を」もファンの間で語り草になっている。

 東京に大地震が起きたあと、綾部情報社は閉鎖され、綾部社長と辰巳が姿を消す。修は二人を探し回り、亨は、修と修の息子の三人で暮らす金を稼ぐためにゲイバーでアルバイトをしている。紆余曲折があり、修が綾部社長と共にナホトカへの密航を決めたとき、風邪をひいてふらふらになった亨がやってくる。「行かないでくれ」と頼む亨を、一度は振り切る修。だが、風邪薬を買って戻ってきたとき、息絶えている亨を発見する。

「修は亨を風呂に入れて、ヌード写真を身体に貼り付けるんですね。亨が童貞だったから」

 ラストシーンで、修は亨の亡骸をドラム缶に入れてリヤカーで運び、夢の島に置き去りにする。そのとき流れるのが、「ザ・ゴールデン・カップス」のデイブ平尾が歌う「一人」だ。井上堯之の作曲で、作詞は岸部修三。

「『一人』っていい曲ですよね。岸部一徳さんが『傷だらけの天使』のファンだったと話すから、岸部さんに『一人』を歌ってあげたら、『あの詞は僕が書いたんだよ』って」

 岸部修三は岸部一徳の本名である。

 すべての撮影が終了し、萩原と水谷が別れるときもまた、スキンシップで締め括られた。

「『傷だらけの天使』がクランクアップした夜に打ち上げのパーティーがあったのですが、萩原さんから、打ち上げの前に銭湯に行こうと誘われて、二人で街の銭湯に行きました。サウナに入ったあと『豊、背中を流してくれ』と言われて流したら、今度は萩原さんが僕の背中を流してくれてね。当時の僕たちは若くて、言葉を使うよりは、背中を流し合うことの方が、気持ちを通わせることができたんですよ」

「人生で大きな影響を受けた人」

 もう一人、この番組がきっかけで交流が始まった人物がいる。岸田森である。水谷にとって岸田は、「人生で大きな影響を受けた人」だった。

 39年生まれの岸田は、21歳で「文学座」に入団。6年在籍したあと、66年に退団。草野大悟、悠木千帆(後の樹木希林)らと「六月劇場」を結成した。以後は映画やテレビが活動の中心となり、71年に始まった東宝の「血を吸う」シリーズで吸血鬼を演じたことから、和製ドラキュラ俳優と呼ばれるようになった。岸田今日子は従姉である。

「森さんって、顔が怖いでしょ。あの顔でね、僕に怖い話をするの。好きなんですよ、僕を脅かすのが。僕は脅かされ上手だから、エスカレートするんです」

「傷だらけの天使」の撮影で、地方に行ったときだった。岸田が「一緒の部屋にしよう」と言うので同宿したのだが、その夜、蒲団を並べて寝ようとすると、岸田が怪談話を始めた。

「枕元の電気スタンドを小さなライトだけにして、暗い部屋で怖い話をするんです。あまりにも怖いので、僕は、『森さん、今日はもうこのくらいにして、明日も撮影だから寝ようよ』と止めたんです。それで寝る前にトイレに行って戻ってきたら、森さんは蒲団を被って寝ていた。ああ、良かったなと思って、横の蒲団に入ると、いきなり隣りの部屋の襖が開いたの。そこから、白いシーツを被ったものがウァーッと現れて、声も出ないくらい驚いていると、森さんだった。もう、怒るよ、本当に怒るよ、というくらい怖かった」

 岸田の悪戯は、それだけでは終わらなかった。翌日の夜、岸田は水谷にこう話した。

「『豊、部屋の係のおばさん、ちょっと変じゃない』って言うから、『確かに、ちょっと無愛想だったね。でも、そういう人もいるんじゃない』と答えたら、『そうか、何かあると思うな』と言うんです。そのあと、森さんが提案してきた。『僕は明日一番手のロケだけど、豊は二番手だろ。豊は朝、起きるのが苦手だから、僕がロケから戻ってきて、起こしてやるよ。それまではゆっくり寝ていなさい』って。それで、まあ、安心して寝ていたんですよ」

 翌朝、眠っている水谷に「豊ちゃん」と呼びかける声が聞こえた。薄目を開くと、蒲団の側に客室係のおばさんが座っていた。

「『豊ちゃん、起きなさい、豊ちゃん』って呼ばれて起きたら、おばさんのユニフォームを着て、カツラを被って、化粧をした森さんだった。森さんはわざわざ前日におばさんのユニフォームを借りて、メイクさんに女性用のカツラを借りて、頬紅と口紅を塗って、変装した姿で、僕を起こしたんです。いい大人がそんなことまでするんですよ。僕がウワァーと悲鳴を上げるのを聞くために。森さんは楽しかったんだろうけど」

 岸田とは仕事だけでなく、定期的に食事に行ったり、自宅を訪ねたりと、プライベート面でも付き合いが続いた。当時、岸田が住んでいた恵比寿の自宅に泊まったときだった。

「翌日は撮影があったんです。それで朝、起きたら森さんが、『豊、俳優は同じ服を2日続けて着てはいけない。これを用意してあるから、着替えて行きなさい』と言って、自分の服を貸してくれた。『朝食はトーストとコーヒーね。テレビのニュースでも見ながら食べなさい』と。僕は、森さんは本当に優しいな、と思いながら食べました。その間、森さんは向こうで何かやっていたけど、気にしなかった。『さあ、僕も食べよう』という声がして振り向いたら、森さんは、ハム、玉子、レタス、トマトとか具が一杯入った分厚いサンドイッチを持っていたんです。僕はシンプルなトーストなのに、『森さん、何よ、それアリ?』って感じでしょ。僕にそれを言わせたくて、わざと豪華なサンドイッチを作っていたんですね」

 岸田はまた、水谷を自分の交際相手に引き合わせたこともあった。最初の妻だった悠木千帆と離婚した後、再婚した相手である。

「ある日、『豊に会わせたい人がいる』と言われて。その人は銀座のバーのママだったんですね。お店に行ったら、森さんが耳元で『彼女、可愛いだろ』と聞いてきたけど、僕から見ると可愛いを通り越していて、すごく年上の人だったから。『そ、そうですね』『今、彼女と付き合っているんだよ』『そうなんですか。いいですね』なんて会話をしてね。それでしばらくして、二人は別れました。別れて間もなく、森さんが『うちに来いよ、豊。女のすごさを見せてやる』と言うのね。何かと思ったらビデオテープだった」

 岸田が見せたのは、「傷だらけの天使」を自宅で録画したビデオである。

「森さんが『彼女が俺の出ているシーンを全部消去していったんだ。全部だぞ』と言って、再生したら、本当に森さんの登場シーンだけが消えていた。でも、幸いなことに、彼女は森さんが大事にしていた蝶々のコレクションは持っていかなかったって」

 岸田が国内外の蝶の採集、収集をするコレクターだったことは有名である。「傷だらけの天使」の放映が始まった74年の時点で、約2000頭集めていたという。

「そんなごくプライベートなことまで、僕に見せてくれたんです。お付き合いをしているうちに、森さんから教えてもらったことも多かった」

 ある時期、岸田がゴルフに夢中になったことがあった。当時のプロゴルフ界には、青木功、ジャンボ尾崎、中嶋常幸などのスター選手たちが並び、最盛期を迎えていたが、ゴルフ場はほとんどが会員制でプレーの料金が高く、金持ちがやるスポーツと見なされていた。

「森さんには似合わないと思ったので、『ゴルフってそんなに面白いの』と聞いたら、『面白いよ。でも豊はまだやっちゃ駄目だ。理由は、まだ20代の豊が会わない方がいい人と会うからだ』って言うんですよ。そういう所に来る人たちは、いわゆる社会的に立派な肩書を持つ人たちですよね。森さんは『豊は今、そういう人たちに会わない方がいい』と。その言葉を聞いて、森さんの僕に対する思いが、よく分かりました」

 岸田からは様々なことを学んだ。極め付きは、演技に関する教えだった。

「森さんからは、『俳優にとって最高の褒め言葉は、地でやっているんですか、と聞かれることだ。それは芝居をしているのが見えないって意味だから』と教えてもらいました。『何を演っても水谷豊だと思われること、これがすごいんだ』。その言葉がずっと残っていますね。僕が目指すのは、まさにそれだったし、いつも自分でいたいというのがテーマだったから。俳優としての大きな指針を与えてもらったと思います」

「こんなことになるのなら、ぶん殴ってでも、酒を止めさせるべきだった」

 その岸田が亡くなったのは、「傷だらけの天使」が終了してから7年後の82年だった。

「訃報を聞いたとき、僕はもう、ショックと悲しみで、しばらくは立ち上がれなかった」

 岸田の死因は食道ガンで、享年43。六本木でバーを経営するほど酒好きだったので、過度の飲酒が命を縮めたとも言われた。岸田の兄貴分とされる若山富三郎が「こんなことになるのなら、ぶん殴ってでも、絶交してでも、酒を止めさせるべきだった」と嘆いたほどだ。

 同年12月29日、水谷は通夜の席で「傷だらけの天使」以降、疎遠だった萩原健一と再会した。この年の萩原は、映画では「誘拐報道」(伊藤俊也監督)、テレビでは「君は海を見たか」(フジテレビ系列)に主演し、それぞれ話題作になっていた。

「萩原さんは、僕を抱きしめながら『豊、森ちゃんが俺たちを会わせてくれたんだ。森ちゃんの分も頑張っていこうな』と話した。わずか半年あまりの(『傷だらけの天使』の)撮影でしたが、三人は不思議な縁で結ばれているのだと思いました」

 葬儀にも参列した水谷は、岸田の事実婚の妻だった女優・三田和代に招かれ、親族の控室に入った。その部屋で彼は意外なことを耳にしている。

「僕はアメリカに行ったとき、森さんにウィスキーを買って、それをお土産にしたんです。そしたら森さんが、『豊、これは幻の酒といってね、すごい酒なんだよ。よくこんな酒を買ってきてくれたな』と言って喜んでくれたの。だけど、葬儀の控室で三田さんから『あなたからいただいたお酒も棺桶に入れました』と聞いてびっくりした。森さんは僕に『あんなに美味い酒はない』と言っていたのに、飲んでいなかったのね。『岸田はボトルの開け方が分からなかったそうです』と三田さんに言われて思い出したのは、そのウィスキーのボトルはとても複雑な形をしていて、僕が見ても、どこから開けるのか分からなかったこと。珍しい形だから、森さんが喜ぶと思って選んだのに、飲めなかったんですね」

 開け方が分からないウィスキーを「飲んだ」と言い、「あんなに美味い酒はない」と喜んでみせた岸田の水谷への気遣い、人柄が偲ばれるエピソードである。

「森さんとは、最後まで、そんなふうでしたね。だから、亡くなったあとの喪失感が大きくて、仕事をする意欲がまったく湧いてこなかった。森さんがいなくなったことを契機にして、芸能界を去ろうと本気で考えたこともありました」

※水谷豊・松田美智子共著『水谷豊 自伝』から一部を抜粋、再構成。

デイリー新潮編集部

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