「私も死ぬからお前も死になさい!」包丁を持った母に追いかけられた小学生が「名優・水谷豊」への一歩を踏み出すまで

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「私も死ぬからお前も死になさい!」包丁を持った母に追いかけられた小学生が「名優・水谷豊」への一歩を踏み出すまで

「相棒」の杉下右京、「傷だらけの天使」の乾亨、「熱中時代」の北野広大……。水谷豊を語る時、真っ先に浮かぶキャラクターは世代によってさまざまだろう。それだけ幅広い役どころを長年にわたって演じ続けているわけだが、小学校時代は夜遊びをしたり、タイマンを張ったりして、親をほとほと心配させたという。それがなぜ、「テレビの中」に飛び込むことになったのか。

「こんなに自分の過去を振り返ろうとしたことは一度もなかった」という初めての著書『水谷豊 自伝』(水谷豊・松田美智子共著/新潮社)から、ブレーク前夜の知られざるエピソードを紹介する。

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おいたち

「僕が物心ついたとき、父はもう家にはいませんでした。父親が家にいない生活が普通でしたし、何処(どこ)にいるのかを、家族に尋ねたこともありませんでした。父親は生活を支える人、僕の父への思いはそれだけでした。母だけで不自由がなかったからだと思います」

 水谷豊は1952年7月14日、北海道芦別(あしべつ)市で生まれた。芦別市は北海道の中部に位置し、三井、三菱などの財閥系企業が開発した石炭産業で栄えた町である。同市の面積の約9割を森林が占め、盆地であるために、年間の気温差が大きい。

 自宅の最寄り駅は、JR北海道・根室本線の芦別駅と富良野(ふらの)駅の中間にある野花南(のかなん)駅で、山岳地帯特有の自然豊かな景色が広がっていた。

 両親は京都の出身だが、「これから事業をやるのなら、北海道だ。北海道の時代がくる」と友人に誘われ、移住を決めたという。兄2人、姉1人がいる4人兄姉の末っ子である。

「幼い頃の思い出といえば、夏は近くを流れている空知(そらち)川を裸で泳いだこと、家族が集まって大きな蚊帳の中で寝たこと。冬は兄や近所のお兄さんたちが雪でかまくらを作ってくれて、その中で遊んだり、兄が沼の中でザルを使って小海老を捕り、ストーブで炙って食べさせてくれたりしたことですね。それから北海道ではトウキビと呼ぶのですが、母が茹でてくれたトウモロコシがとても美味しかったのを覚えています」

 小学校は、留萌(るもい)から延びる天塩炭礦(てしおたんこう)鉄道の終点にある小平(おびら)町立達布(たっぷ)小学校(2005年閉校)に通った。2階建てで、校舎の長さが100メートル以上ある大きな学校だった。体育館は別の敷地に建っており、校庭も広々としていた。

「冬は一面に雪が積もるので、兄が竹スキーを作ってくれるのも楽しみでした。切り落とした竹の先端をストーブで温めて曲げながら、足先が引っ掛かるように細工するんです」

 父親の職業については「職人さんを抱えて、全国の建築現場を巡っていた」としか分からないと話す。実際は、建築現場に鉄パイプで足場を組む足場工事の監督だった。足場鳶(とび)と呼ばれる職人たちや、作業員たちを仕切る仕事である。

 父の顔を知らずに育った水谷が6歳になった頃、母から、北海道の家を引っ越して、父が住んでいる街へ移ると教えられた。そのとき母は兄姉を集めて、手紙を読んでくれた。父から届いたもので、「こちらでは、米軍の飛行機が飛んでいます」という内容だった。

「小学校2年で東京へ引っ越したのですが、上野駅に着いたら父が迎えに来ていて、そのとき初めて、母から『この人がお父さんよ』と紹介されたんです。もの凄く緊張しましたね。兄姉たちも父をあまり覚えていなかったと思いますよ」

 一家は多摩地区の中部に位置する米軍立川基地(現・自衛隊立川飛行場)の近くに居を構えた。1960年春のことである。父の手紙にあった通り、自宅の真上を米軍の輸送機が飛び交い、騒音がひどい。ベトナム戦争が始まっており、翌61年にはグローブマスターという軍用輸送機を頻繁に目撃するようになった。

 北海道とはまるで異なる新天地での暮らしだったが、その後も父親の不在は続く。基地の街でしかありえない体験もした。

「友だち数人で野球をしていたら、退役軍人の男の人と日本人の奥さんがやってきて、僕たちにチョコレートやキャンディを配ってくれるんです。そのとき、おでこにキスするんですね。当時はラッキーとか思っていましたが、今、考えたら、不思議な光景ですよね。チョコレートは嬉しかったけど、いつもポケットに入っていたのは、風船ガムです」

 純朴だった少年は、周囲の環境に慣れるにしたがい変化していった。

「僕ね、小学校6年生のとき、包丁を持った母親に追いかけられたことがあるんですよ。学校で悪い仲間ができて、毎日、夜中まで遊んでいたから」

 彼が通っていたのは、立川市富士見町にある市立第四小学校。下校して夕方近くになると、毎日仲間が誘いに来た。口笛で呼び出され、よく行ったのが銭湯だ。

「ゴム風船にお湯を入れて口を縛り、それを風呂の中で投げ合って騒ぐんです。大人に『いい加減にしろ! バカ!』と怒鳴られるのが目的でふざけていたようなもの。そのあとは公園へ行き、他の仲間と合流して遊んでいました」

 公園では、仲良く遊ぶだけではなかった。他の小学校の生徒たちも集まっていたので、互いに反目し合い、たびたび喧嘩を繰り返していたのだ。

「殺気立っているというか、どこか街が荒れているという感じがありましたね」

母は誰よりも怖い存在だった

 そんなある日、郵便箱に学年主任が母親に宛てた葉書が入っているのを見つけた。

〈最近、水谷君の様子がおかしい。彼は悪の方向へ行くか、良い方へ行くかのどちらかだ。家庭での指導をくれぐれもよろしく〉

 彼はその葉書を机の引き出しに隠したが、数日後、母親に見つかってしまった。

「『これはなに?』と聞かれたけど、僕はとぼけていたのね。そしたら、お袋が台所から包丁を持ち出してきて、『私も死ぬからお前も死になさい!』と迫ってきた」

 裸足で家を飛び出したものの、母の本気を目の当たりにした彼は、仲間を抜ける決意をする。当時の彼にとって、母は誰よりも怖い存在だった。

「翌日、学校で『もう俺を誘わないでくれ。付き合いをやめるから』と話したら、怒った仲間たちに囲まれて、『抜けるのなら、指を詰めろ』と言われてしまった」

 ヤクザの儀式を要求された彼は、「それはできねえ」と拒絶した。

「そしたら、『こちらで出す相手と二人で殴り合ってくれ』ということになって」

 放課後、校舎のトイレの裏へ行くと、いかにも喧嘩が強そうな少年が待っていた。12歳にして、タイマンを張った決闘である。二人はしばし殴り合いを続け、結果的に水谷が勝って、悪友たちと別れることができた。

「基地の街という土地柄や、環境もあったと思いますが、そういう面は早熟だったんですよ。悪い方向へ行った同級生もいましたしね」

 不健全な遊びを覚える一方で、彼はスポーツにも励んでいた。小学4年からリトルリーグに所属したのだ。器用というか、夜遊びと日中のスポーツを両立させていたのである。

「立川のゼネラルクルセイダースというチームで、僕が入った頃のメンバーは20人以上いたんです。だけど、2年後、僕が6年になったときには、10人くらいに減ってしまった。それなのに、東京都の大会で優勝したんですよ。その結果、翌年の8月にアメリカで開かれる世界大会に出場資格ができた。選手は選抜のかたちになるけど、僕らは優勝チームだから、選ばれる選手も多いはずなんですよ。僕も打率が良かったので、行けると思った」

 だが、リトルリーグには年齢制限がある。上限は12歳で、7月生まれの彼は、世界大会が開かれる1カ月前に13歳になってしまう。

「それで諦めたんです。でも、僕は内野手とピッチャーとキャプテンを兼ねていて、当時はスポーツの世界へ行きたいと考えていたので、残念でした」

 多感な少年時代とあって、スポーツの他にも行きたい世界があった。

 水谷の家の近くには、米兵たちが住む“外人ハウス”が建ち並び、加山さんという女性が軍人の夫と暮らしていた。子供がいない彼女は、水谷をとても可愛がってくれた。

「加山さんのご主人はテキサス出身の将校で、士官というのかな、偉い人なんですね。それで、ご主人がテキサスに帰って留守のときなんかに、『泊まりにいらっしゃい』と呼ばれて、泊まりに行ったりしてた。家がご近所だったので」

 米軍基地が身近にあったことも影響しているが、小学生の彼は、押し寄せるアメリカ文化に浸り、大きく影響されていた。

「僕はテレビを初めて見たときから、ブラウン管の中の世界に凄く興味を持っていたんですよ。あの頃、家にあったのは、両側にスピーカーが付いたステレオテレビで、上にプレーヤーが付いていて、レコードも聞けるという夢のような機械だった。スイッチを入れたら、モノクロの映像が現れるのが本当に不思議でね。当時は、『ララミー牧場』『ローハイド』『ルーシー・ショー』『アニーよ銃をとれ』『コンバット!』『ライフルマン』とか『パパは何でも知っている』とか、アメリカのドラマがたくさん放映されていた。加山さんには、あの世界はどこにあるんだろう、どうしたら、あっちの世界へ行けるんだろう、という話をよくしていたんです。自分もテレビの中に入ってみたかったんですね」

 水谷の話を聞いた加山さんは、ある日、児童劇団のパンフレットを持ってきてくれた。

「どこで手に入れたのか分かりませんが、『こういうところに行ったら、その世界に行けるんじゃないかしら』と言って、渡してくれたんです」

 彼女の好意が、水谷の人生の転機となる。

「最初に書類選考があって、親の承諾が必要なんです。母は、僕が夜遊びするよりはマシだと思ったのでしょう、許可してくれました。それからオーディションを受けて『劇団ひまわり』に入ったのが、12歳。もうすぐ中学生になるという頃でした」

 こうして彼は、夢に近づくための一歩を踏み出した。

※水谷豊・松田美智子共著『水谷豊 自伝』から一部を抜粋、再構成。

デイリー新潮編集部

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