直木賞で脚光を浴びた「足利尊氏」は、本当に「やる気なし、使命感なし、執着なし」だったのか? 人気歴史学者が考察する「実像」

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 7月19日に第169回直木三十五賞が発表され、垣根涼介さんの『極楽征夷大将軍』(文藝春秋刊)が受賞作となりました。

 室町幕府の初代将軍・足利尊氏を描いた同書の帯には、「やる気なし、使命感なし、執着なし」「なぜこんな人間が天下を獲れてしまったのか?」というコピーが書かれています。

 はたして、足利尊氏とは実際はどのような人物だったのか。人気歴史学者・呉座勇一さんの著書『武士とは何か』(新潮選書)から、一部を再編集してお届けします。

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征夷大将軍への任官要求

 後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏は、戦前には「逆賊」として非難された。けれども、結果的に後醍醐に刃(やいば)を向けることになったにせよ、それは尊氏の本意ではなかったというのが近年の学界の見解である。

 尊氏は基本的に後醍醐天皇によかれと思って行動したが、後醍醐の目にはそれが尊氏の野心に映った。征夷大将軍になり、天下を取る野望があると疑ったのである。

 建武2年(1335)7月、北条高時の遺児である北条時行は鎌倉幕府復活を目指して挙兵し、瞬く間に鎌倉を攻略した。これを中先代(なかせんだい)の乱という。鎌倉将軍府(後醍醐天皇が設置した関東統治機関)を運営していた足利直義(ただよし、尊氏の弟)は後醍醐皇子の成良(なりよし)親王と共に鎌倉を捨てて敗走した。

 尊氏は弟直義を救援するため、出陣の許可を後醍醐に求めた。さらに征夷大将軍の地位を要求した。通説では、尊氏が征夷大将軍を求めたのは、建武政権からの離脱、幕府樹立という野心が彼にあったからだと説明される。実際、後醍醐も尊氏の自立化を恐れて、尊氏ではなく成良親王を征夷大将軍に任命した。なお、尊氏が後醍醐の許可を得ないまま出陣すると、後醍醐はあわてて尊氏を征東将軍に任命している。

 けれども、尊氏の征夷大将軍任官要求は、必ずしも武家政権樹立への布石とはみなせない。鎌倉幕府再建を大義名分に掲げる北条時行に対抗するには、征夷大将軍の権威が必要と判断したにすぎないのではないか。結果を知る私たちから見れば、北条時行など物の数でもないが、当時の尊氏は直義に勝利した時行を恐れたと見るのが自然だろう。

後醍醐との講和条件

 建武2年8月、足利尊氏は北条時行を撃破し、鎌倉を奪回した。しかし尊氏は直義に説得され、後醍醐の帰京命令を無視して鎌倉に居座り、勝手に恩賞を与え始める。この尊氏の行動も通説では、建武政権からの離脱、幕府樹立という姿勢を明確化したと説明される。

 だが、この時点での尊氏にそこまでの余裕があっただろうか。圧勝したとはいえ、反乱の首謀者である時行を取り逃がしてしまったし、時行の残党も鎌倉周辺に潜伏していた。すぐに京都に帰れば、時行が勢力を盛り返す恐れがあった。鎌倉を拠点に関東の支配を安定させた上で帰京しようというのが尊氏の考えだったと思われる(亀田俊和『観応の擾乱(かんのうのじょうらん)』中公新書、2017年)。
 
 けれども、後醍醐天皇には尊氏の真意は伝わらなかった。後醍醐は尊氏が謀反を起こそうとしていると判断し、尊氏討伐軍を派遣する。驚いた尊氏は出家して恭順の意を示そうとするが、直義や家臣らに押されて抗戦を決意する。ただし挙兵した後も、尊氏には刃向かう意思はなく、あくまで「君側の奸」とする新田義貞を討つことを目的とした。

 建武3年(1336)5月、尊氏は摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市中央区、兵庫区)の戦いで義貞、楠木正成軍を撃破した。6月、尊氏は後醍醐天皇と対立する光厳(こうごん)上皇を奉じて京都に凱旋した。後醍醐天皇は比叡山に逃れた。8月には光厳上皇の弟の豊仁親王が践祚(せんそ、皇位を継承すること)した。これが光明(こうみょう)天皇である。
 
 しかし後醍醐天皇が皇位の象徴となる三種の神器を持って逃げたため、光明天皇の正統性は不十分であった。尊氏は比叡山を包囲し、講和を申し入れた。10月、後醍醐天皇はついに講和に応じ京都に戻った。講和条件は、三種の神器の引き渡しであった。

 では、その代償として後醍醐天皇は何を得たのか。後醍醐天皇には太上(だいじょう)天皇の尊号が贈られ、皇子の成良親王が皇太子に立てられた。京都で上皇として悠々自適の生活を送ることができ、しかも成良親王が即位した暁には天皇の父親として院政を行うことすら約束されたのである。

水泡に帰した引退計画

 かつての研究では、この講和は後醍醐天皇を捕らえるための尊氏の策略で、約束を守る気はなかったと考えられていた。だが、歴史学者の家永遵嗣(じゅんじ)氏が、後醍醐天皇への経済的保障として、尊氏が保持した諸国の国衙(こくが)領を進呈(返上)する合意がなされていた可能性を指摘した(「14世紀の公武関係・朝幕関係と室町幕府」『学習院史学』56、2018年)。後醍醐天皇の今後の生活の心配までしている以上、だます気はなかっただろう。
 
 光明天皇の践祚の2日後、尊氏は京都の清水寺に願文をささげた。その大意は「この世は夢のようにはかないものなので、道心を授けてください。早く遁世(とんせい)したいのです。この世での幸せの代わりにあの世での幸福をお願いします。この世での幸福は弟の直義にあげて、直義をお守りください」というものであった。

 なんと、尊氏は武家の棟梁という地位を捨てて、仏道修行に励むつもりだったのである。尊氏はこの世での争いにすっかり嫌気が差していた。

 おそらく尊氏は、光明天皇の治世が安定した時点で出家する予定を立てていたのだろう。しかし尊氏の“厚意”は、後醍醐天皇には通じず、尊氏の引退計画は水泡に帰すのである。

 11月、光明天皇が即位(践祚の後、天皇となったことを天下万民に表明すること)し、後醍醐天皇は光明に対し三種の神器を引き渡した。しかし12月には後醍醐は京都を脱け出して吉野(現在の奈良県中部)に自らの朝廷を構えた。そして光明天皇に渡した三種の神器は偽物(偽器) であり、本物を持っている自分こそが正統な天皇であると主張した。
 
 これにより京都の光明天皇と吉野の後醍醐天皇という2人の天皇が同時に存在する事態となった。歴史学では京都の朝廷を「北朝」、吉野の朝廷を「南朝」と呼び、この時代を「南北朝時代」と名付けている。尊氏は再び後醍醐天皇と対立せざるをえなくなったのである。

 だが、尊氏が征夷大将軍に就任するのは、それから2年近くたってからだ。尊氏はなおも後醍醐天皇との和解の可能性を探った。将軍就任は尊氏にとって不本意だった。願文に見える尊氏の厭世観をポーズと疑う人もいるが、私は本心だと考える。

『武士とは何か』より一部を再編集。

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