「アリア全カット」の驚くべきオペラ タイパ公演を実現させたメゾ・ソプラノ歌手がその狙いを語る

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アリア抜きでもオペラが成立する理由

「むかしから、どうすればもっと多くのお客さまにオペラを楽しんでいただけるか、そればかり考えていました。チケット代は高い、上演時間は長い、イタリア語はわからない……」

 林さんは、3歳からコーラスをやっており、「歌」や「舞台」が大好きだった。東京音楽大学を卒業後は、新国立劇場オペラ研修所第1期生となり、徹底的にオペラを学んだ。

「オペラは、ワーグナーのような切れ目のない楽劇を除けば、ほとんどは、〈アリア〉〈重唱〉〈セッコ〉の3つの組み合わせでできています。〈アリア〉は、ひとりで朗々とうたう曲。〈重唱〉は二重唱から六重唱くらいまで、複数の歌手によるアンサンブルです。〈セッコ〉とは、正確には〈レチタティーヴォ・セッコ〉といって、セリフにフシをつけて歌うように語る部分です」

 やがて林さんは、二期会に所属し、プロのオペラ歌手として活躍するうち、あることに気づいた。

「〈アリア〉で寝てしまうお客さまが、時々いらっしゃるんです。なぜなら、〈アリア〉になると、ドラマの進行がストップするんですよ。〈アリア〉って、ほとんどは歌手のための“見せ場”であって、ドラマとは関係ないんです」

 つまり、〈アリア〉は、美しい旋律や高度なテクニックを披露する、一種の“リサイタル・コーナー”だというのだ。文楽や歌舞伎における“くどき”と似ている。

「たとえば《魔笛》の、有名な〈夜の女王のアリア〉は、長々と高度なテクニックでうたいますよね。あれは、初演時の歌手がモーツァルトの義姉で33歳にして名歌手だったんです。だからあそこで、突然、役柄+彼女自身が生かされる“リサイタル”になるんです」

 そういえば、《アイーダ》の名アリア〈おお、わが故郷〉は7分ほどの長さがある。その間、完全にドラマの進行はストップし、彼女ひとりの“見せ場”となる。これをイタリア初演で演じた歌手は、作曲者ヴェルディの愛人だった。

「結局、オペラは〈重唱〉と〈セッコ〉でドラマが動くんです。だったら、まず〈アリア〉はいらない! 〈セッコ〉は誰でもわかるように、日本語の“お芝居”にしちゃう! あとは字幕付き原語の〈重唱〉で進める! そうすれば十分、2時間で物語全部をキチンとお見せすることができます」

 まさに“コペルニクス的転回”だった。まず林さんは、美しい重唱が多い《コジ》を第一弾に選び、2006年の「二期会週間」(サントリーホール/小ホール)で上演した。“コペ転オペラ”の誕生である。

「一種の自主公演なので、自由にできるのが幸いしました。もし専門家の監修が入っていたら、ダメだったでしょうね(笑)」

 これが好評で、以後、《林美智子の90分の「コジ」!》と題して何度か再演され、認定NPO法人トリトン・アーツ・ネットワーク(第一生命ホールを拠点に活動する団体) で、”ダ・ポンテ3部作”を上演する企画に発展した。台本作家のダ・ポンテが、モーツァルトのために書いた、オペラ史に残る3作だ。

「まず《コジ》を、2016年に第一生命ホールで上演しました。《コジ》は二期会週間で2回、北九州で1回上演していましたが、その後、《フィガロの結婚》《ドン・ジョヴァンニ》と初演を重ね、ようやく今年、3部作をつづけて上演することができました」

 ただし、あくまで会場は小ホールだし、予算にも限界がある。本格的なオーケストラや舞台美術、衣装は使えない。しかし林さんはあきらめなかった。伴奏はピアノ、衣装もコンサート・スタイル、もちろん舞台セットなどもナシ。

「たしかにないない尽くしですが、だったら、できる範囲で面白くすればいいんです。まず舞台にセットは組めないわけですから、すべてを〈椅子〉だけで進めることにしました。〈椅子〉が、あるときはチェアになり、あるときは音楽の表現としての舞台道具となり、あるときは壁や台座になる。《コジ》だったら、主要登場人物は6人ですから、〈椅子〉が6個あればいい」

 そこで林さんは、目黒周辺の家具店やアンティーク・ショップを見て回ることからはじめた。初演時から参加している大ベテラン歌手、池田直樹さん(バス・バリトン)も一緒に探し回ってくれた。あちこちまわって、ようやくピッタリの椅子が見つかったが、林さんは単なる小道具では終わらせない。

「以前、その椅子に、出演者のサインを書いてお客さまにプレゼントすることにして、終演後に抽選会を開いたことがあります」

 当選した6人には、なんと林さんと池田さんが、直接、自宅まで届けてまわったという。ていねいな対応ではあるが、いささかサービス過剰ではないだろうか?

「とんでもない! これくらいのオペラ愛がないと、オペラのお客さまを増やすことはできません!(笑)」

 しかし、日本を代表するオペラ歌手2人が、椅子を抱えて家まで届けてくれるのだから、当選者も驚いたことだろう。

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