「NHK」「日テレ」初放送争いの背後に「CIA」「吉田茂」「読売新聞社主」の暗闘が 知られざるテレビ創世記秘話

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 昭和28年2月、NHKが日本初のテレビ放送を開始。本来、その栄誉は日本テレビが受けるはずだった。なぜ逆転されたのか。そこには占領軍、読売新聞社主・正力(しょうりき)松太郎、時の首相・吉田茂らの思惑や野望が交錯していた。CIA文書からひもとくテレビ創世記秘話。【有馬哲夫/早稲田大学教授】

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 今から70年前の1953年(以下西暦の下2桁のみ)2月1日、極めて弱い電波で、雨降り画面ながら、NHKが東京の一部で日本初のテレビ放送を行った。圧倒的優位に立っていた日本テレビ(日本テレビ放送網株式会社)に対する起死回生の逆転劇だった。今でこそ両ネットワークは、仲むつまじく共同制作の番組を放送しているが、拙著『日本テレビとCIA』(新潮社)でも書いたように、両者は不倶戴天の敵同士だった。なぜこの逆転劇が起ったのだろうか。

 本稿ではNHKが決して語ることのない本当の「テレビの創世記」のドラマをCIA文書などアメリカ側の公文書をもとに明らかにしよう。

首相でもなしえない業績が三つも

 さて「テレビの創世記」の主人公は、読売新聞社主・正力松太郎(1885年生まれ)でNHKではない。52年まではNHKは初放送レースに参加さえできなかった。

 正力はメディア史では超大物だが、最近ではマスコミ志望の学生ですら「セイリキ」と読むなど、忘れ去られた存在になりつつある。

 しかし、5万部に満たない弱小紙を躍進させ、のちに1千万部の世界に誇る大新聞になる礎を築いたほか、プロ野球、テレビ放送、原子力発電を導入するという、一国の首相でもなしえない業績を三つまでも成し遂げている。メディアの世界を越えて、現代史の巨人ともいえる。

 とはいえ、テレビ放送に関しては、彼は最初から中心人物だったわけではなかった。日本橋の洋物屋の皆川芳造(1882年生まれ)によって担ぎ出されたのが始まりだった。

 彼は戦前アメリカに渡っては新奇なものを見つけ日本に持ち込んでいたが、その一つが、日本最初のトーキー映画であるミナ・トーキーで、これはリー・ドゥ・フォレストというアメリカの発明家(「ラジオの父」といわれる)の特許を使ったものだ。このとき以来、皆川はドゥ・フォレストの日本での代理人になった。

占領下でテレビ製造ベンチャーを設立しようとしたが…

 終戦後の48年、彼はドゥ・フォレストが持っていたテレビに関する特許を使ってテレビ製造ベンチャーを立ち上げようと思い立った。当時は占領下なので、日本人では無理でも、アメリカ人との共同事業なら許されると考えたのだろう。競争相手がいない日本では一発当たれば大きい。

 問題はテレビを売るにはテレビ放送をしなければならないことだ。そこで、読売新聞を成功させた正力に目をつけた。テレビ製造の方では日産財閥の総帥・鮎川義介に声をかけた。

 もちろん皆川は、当然自分が社長で、正力と鮎川は役員として参加させようと考えていた。また、正力も鮎川も、戦犯の容疑が晴れて、巣鴨プリズンから出てきたものの、公職追放に引っかかっていて事業主にはなれなかった。

 事実、皆川はGHQに正力を役員として加えたいと願い出たが、それすら許可されなかった。鮎川の方は、願い出た形跡すらない。鮎川自身、あとで自らテレビ製造会社を起こそうと試みるので、加わるつもりがなかったのだろう。

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