【違和感があるカタカナ語】コンプライアンス、プライオリティ… 言語社会学者が警告

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 外来語をそのままカタカナで表記できるのが、日本語の便利なところ。しかし、プライオリティ〈優先順位〉、コンプライアンス〈法令遵守〉、ガバナンス〈統治〉など、近年のカタカナ言葉のまん延に違和感を覚える人も多いのではないでしょうか。

 もともと外来語だった漢字や漢字語のように、いずれそれらのカタカナ語も日本語として定着するかもしれません。しかし、言語社会学者の鈴木孝夫さんは、「訓読みができないカタカナ語は、訓読みができる漢字・漢字語とは事情が異なる」と主張しています。鈴木さんの著書『閉された言語・日本語の世界【増補新版】』(新潮選書)から、一部を再編集してお届けします。

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 日本語には、ヨーロッパ系統の言語から数えきれないほどの言葉が、外来語として取入れられている。原則として片仮名書きにされるこれらの単語の多くは、しばしば本当は必要もないのに外国的なものを無性に有難がる日本人の気質に迎合して、無反省に使用されている。

 片仮名外来語の第一の問題は、もとの言語ではまったく同じ言葉が日本語に入ると、相互の同一性が見失われることである。

 英語からドライバーという言葉が入っている。自動車を運転する人という意味で、日曜ドライバーとかオーナー・ドライバーといった具合に定着していると思う。ところがもう一つねじ廻しのこともドライバーと言う。これも現在は普通に使われている。さらにゴルフのクラブの一種にドライバーというのもある。この三つのドライバーは、よほど英語に詳しい人以外には、同音同形の別々の言葉として受止められていると思う。相互に意味の上で明瞭な関連が認められないからである。

 だが元の英語では、これらはまったく同一の言葉なのである。そもそもドライブとはdriveであり、これは「何かに力を加えて、ある方向に無理に押しやる」という意味を持った動詞である。そこで家畜の群を追い立てること、さらには馬に鞭を加えて馬車を引かせることがドライブであり、従って御者はドライブする者、つまりドライバー(driver)だった。乗物が馬車から自動車に変るにつれて、運転者がドライバーとなったのである。他方ねじ廻しは、力を加えてねじを何かにはめ込むものであるから、これもドライバーであり、ゴルフの球を勢よく打つ道具も同様にドライバーである。

 だから英語を母国語とする人が、この三つのドライバーに共通性を認めることには問題がないのに、日本人にとっては、運転者とねじ廻しとゴルフのクラブでは、これらを共通の視点から眺める言語習慣がないため、この三者は偶然同じ形をした別々の言葉と受けとられるのである。ドライバーという言葉の内部構造に立入って考えることが普通の日本人にはできないのは当然である。

 もう一つの例はローラー・スケートとローラー・カナリアである。ローラー・スケートとはローラーのついた靴で滑るものであるから、少し英語の勘のある人ならば、テニス・コートを平らにするローラーや、ペンキを塗るローラーなどと関連させることはできるかもしれない。

 だがその人も、美しく囀るカナリアの一種ローラーと、スケートのローラーが関係があるなどとは思わないだろう。しかしローラーとはrollerであり、ロールrollとは「ころがす」という意味の動詞なのだ。ローラー・カナリアはコロコロと玉を転がすような声で長く鳴き続けるため、「ころがし屋」の意味でローラーなのであり、スケートのローラーとまったく同一の言葉である。

訓読みができない外来語の問題点

 パイプもよい例である。タバコを吸うパイプと、水道やガスのパイプは、もともと中空の丸い断面を持つ長いものを指すpipeという一語から出ている。笛もそうだ。しかし日本語に入ると、タバコのパイプと、ガスのパイプはまったく縁が切れてしまう。若しパイプのことを、綴り(表記)も英語そのまま日本語に入れてpipeと書き、しかもこれをくだ(管)とも読む一種の訓読みの習慣があれば、タバコのパイプとガスパイプは別々の言葉に分化しないですんだと思う。
 
 漢字に対して日本語はまさにこれをやっているのである。もし漢字表記を止めるか(ということは仮名か、ローマ字書きにするか)、あるいは漢字の訓読みを廃止したら、現在の音読みの漢字あるいは漢字語は相互の関連を失って、たちまち多くの同形異義語に分裂することは明らかである。しかもそのようにしてできた言葉の一つ一つは、内部的な意味付けを失って、ただあるものの名、ある動作の名として、それ自身意味のないレッテルになってしまうのである。
 
 たとえばセキタンは現在石炭と書かれているため「いしのようなすみ」という語源解釈がたやすくできる。石と炭という漢字の訓読みがこれを可能にするのだ。漢字の訓読みを廃止し、さらに漢字そのものも廃止すれば、セキタンは、その言葉全体で、あるスミに似た物質の名として覚えなければならなくなる。そして「セキ」という要素を含む他の言葉、たとえばセキブツ(石仏)との言葉の上の関連は多くの人にとって不明となるのである。

 日本以外のどこの国の言葉でも、外国の言葉が外来語として取入れられる場合は、ドライバーやローラーの例のように、もとの言語におけるその言葉の持つ組立てのしくみや、意味の内部構造が不明となり、セキタンのような形で一つの言葉全体が、ある特定の対象に引き当てられるのである。そこで借用語は教育のない人にとっては、機械的な記憶の負担を増す重荷となることが多い。日本語にカタカナ外来語が増えることは、要するに一般の人にとってはよく分らない言葉が増えることになるのだ(注、新しい例で言えば、プライオリティ〈優先順位〉、コンプライアンス〈法令遵守〉、ガバナンス〈統治〉などが典型であろう)。

lとr、bとvの混同

 カタカナ語の第二の問題は、元の外国語では違った音で区別され、表記も異なっていた二つ以上の語が、日本語に入ると、そこには対応する音の区別がないために、表記と発音がどちらも同形になり混同されたり混乱するような場合である。

 たとえばボーリング(スポーツ)とボーリング(地面に穴を掘ること)、ボール(球)とボール(半球形の容器)は英語では表記も発音も違う別の言葉であるが、日本語では同じ発音で意味も似ているから区別しにくい。食品のフードと、外套のフード、テニスのコートと衣服のコート、住宅ローンとローン・テニスのローンにも同じ性質の問題がある。
 
 ゴルフのリンクスとスケートのリンクは、語頭のリが英語ではlとrで別であるのに、日本語では区別がなくなる上、どちらも広い場所を指すことからしばしば混同される。語尾のスがとれたゴルフ・リンクがあるかと思えば、スケート・リンクスがあったりする。バルブ(valve)とバルブ(bulb)などにも、同じような混同が見られる。

インテリ階級を利する外来語

 第三にはまったく同じ語が、異なった時代に二度取入れられたり、用いる場面が違うため、日本語では別の発音の言葉となり、従って形も意味も違う二語と受止められるようになっている例である。ストライキとストライク、ガラスとグラス、パーツ(部品)とパート(タイム)、トラックとトロッコなどがよい例であろう。

 このように仮名書きの外来語は、ただ単に漢字や漢語に比べて日本語に入ってからの時間が短いために定着性が弱いだけではなく、その言葉を、漢字のように訓読みにすることにより本来の日本語との対応をつねに強化し、元の表記を残すことで、同音化からくる混同を回避するという手段を持たないため、外来語としての本質的な不安定性をいつまでも内在させているのである。

 更に近代ヨーロッパ語からの借用語が漢語と異なる点に、語形がいつの間にか省略を受けて極端に短かくなることがあげられる。ストライキがストになり、レコーディングがレコ(オフ・レコ)となるたぐいである。そこで原語では一部しか等しくなかった、いくつかの語が日本語では同一の形態になってしまうことがある。プログラム、プロフェッショナル、プロダクション、プロレタリアート、プロパガンダ、プロツェント(ドイツ語のパーセント)などが、すべてただのプロになってしまっている。

 従って仮名書き借用語を思う存分に、そして正しく使えるのは外国語に造詣の深い一部のインテリ階級に限られることになる。この点、英語やフランス語の中で、ギリシャ語、ラテン語に由来する外来語が、教育のない一般大衆にとって使いにくいのと非常に似ている。もし漢字や漢語を音読みに限ったら、多くの高級語彙が一般の日本人にとって言語的に不安定なものになってしまうという私の説は、この仮名書き外来語の考察からも正しいものと言えよう。

※鈴木孝夫さんの『閉された言語・日本語の世界【増補新版】』(新潮選書)から一部を再編集。

デイリー新潮編集部

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