「アルファベットは26字、あいうえおは47字。だから日本語は非効率的」という俗説を言語社会学者が徹底論破

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 日本語は複雑で非効率的な言語だという印象を持っている人が少なからずいるようだ。たしかに平仮名、片仮名、そして何千という漢字を使いこなさなければならないのだから、故なきことではないかもしれない。実際、過去には何度も「漢字廃止論」や「日本語のローマ字化」などが提唱されてきた。

 しかし、日本語は本当に「非効率的な言語」なのだろうか。言語社会学者の鈴木孝夫さんの『閉された言語・日本語の世界【増補新版】』(新潮選書)では、そのような俗説に対して徹底的に反論している。一部を再編集してお届けしよう。

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 現在の日本人が日本語に対して持っている不完全感を助長した有力な原因の一つに、明治以来、我国の有識者たちが攻撃して止まなかった国語表記の問題がある。国語問題と言えば、それは国字問題のことであると一般に受けとられるほど、日本語をどう書き表わすのが一番よいかという議論は、或るときは漢字廃止論の形で、或るときはローマ字化の提唱、更にまたカナモジのすすめとなって繰り返し繰り返し現われてきた。
 
 戦後の国語審議会の歴史も、殆んど表記法の議論に終始していることを見れば、表記の問題がいかに日本人の心を占めてきたかが分る。しかし私はここで明治以来の長い、そして不毛きわまりない国字論争に立入って、一つ一つの議論の是非を論じるつもりは全くない。

 ただこの問題をいくらか整理して見た結果、多くの人々が、日本語のすでに確立した伝統であった漢字仮名まじり文を不合理、不完全なものとして排斥するに至った思考過程と、そこに見られる、言語学的観点からの二、三の基本的な誤りを私なりに理解するに至ったので、この点に焦点を絞って考えてみたいと思う。

 幕末から明治初年にかけての前島密(ひそか)の漢字廃止案に始まり、初代文部大臣であった森有禮(ありのり)の国語英語化論、そして田中館愛橘(たなかだてあいきつ、幕末から戦後まで生きた日本の地球物理学者)の日本のろーま字会(明治42年)の設立に至る一連の国語改良改変運動を支えていた思想的根拠は、今から見ると非常に単純なもので、次の図式で簡単に示すことができる。

「西洋文明の決定的な優位」→「日本の立遅れ」→「西洋言語の優秀性」→「日本語の劣等性」→「国字の非能率」→「国語改良の必要(漢字廃止または仮名書き、そしてローマ字化)」

 さて私の狙いは、この図式全体を主として日本語と日本人の特殊なかかわり方という観点から再検討することであるが、手はじめに国字の非能率という認識が、国字改良へと人々を駆り立てた際に見られる言語の本質論に関係する誤解について、まずは仮名の問題をやや詳しく述べてみたい。

《ヨーロッパ先進国の言語は、すべてアルファベット26文字で書き表わすことが出来る。しかるに日本語は、いろはが47文字もあり、それがしかも平仮名と片仮名の2通り、その上何千という漢字を混用しなくてはならない。漢字は学習に困難で時間がかかり、日本の文化の発達を阻害している。》

 国字改良論の立場は上のように要約することが出来ると思うが、私の見るところでは、この議論は言語学的に比較できないもの、従って優劣を論じることが無意味なものを、あえて同一次元で比較するという誤りの上に成立しているのである。

 まず26対47では勝負は決ったも同然であるという、アルファベット対仮名の数の比較を取上げてみよう。

 この比較は、私の言う本来的に比較できないものの誤れる比較の一つであるのだが、その理由はまず日本語と例えば英語の音節(シラブル)構造の相違および音節の数の決定的な相違に求められる。

 ここは専門的な言語学の議論や証明を行う場ではないので、出来るだけ簡単に説明すると、まず日本語の音節数は現代語でわずか百を少し越す程度なのに、英語のそれは一体いくつあるか分らないほど多いという、言語構造上の対蹠的(たいせきてき)とも言うべき性質の違いを指摘する必要がある。日本語は世界の言語の中でも、音節数が少ない方の代表格なのである。
 
 音節とは何かを難かしく言えば面倒であるが、一応一つないしいくつかの単音が、ことば(単語)の中で一つのかたまりをなし、たとえて言えば、竹の節(ふし)のようになって、ことばを作っている音声学上の単位であるとしておく。日本語の「蚊」はカで一音節語であり、「犬」はイ・ヌで二音節、「頭」はア・タ・マで三音節語という具合に使う。英語では犬dogもストライキstrikeも共に1音節語であり、コーナーcornerは2音節語、エレベーターelevatorは4音節語である。
 
 この音節の種類と数が英語ではいくらあるのかということが実は分っていないらしい。それほど種類が多いのである。英語と日本語の対照比較研究を長い間専門にされている楳垣実(うめがきみのる)教授が理論的に推定されたところによると、三千近くになるという。私も知人のアメリカ人言語学者たちに尋ねてみたが、誰一人としていくつあるかを知っている人はいなかった。
 
 この事実は何を意味するかというと、英語という言語にとって音節の数は、学問的にも実用的にも殆んど重要性を持たないということなのである。そしてもし英語が日本語のように音節文字を使えば何千という種類の仮名に相当する文字が必要になってしまうということである。
 
 第二に音節それ自体の構造にも、日英両言語の間には非常な違いがある。先にストライキは英語でstrikeで1音節だと言ったが(これは日本語では5音節である)、この例でも明らかなように、英語の音節はきわめて複雑な音のかたまりであることが多い。いま子音をC、母音をVで表わすとすれば、英語の音節にはCCCVC, CCVCC, CVCCC, VCCCのような母音を中心にして前後に一つから三つまでの子音を持ったものが無数に存在する。ところが日本語の音節は二、三の例外を除いてすべてが1子音と1母音、つまりCVの型におさまってしまうという、きわめて単純で整然とした構造になっているのである。
 
「子音・母音」という結合は、「母音・子音」という結合にくらべると、よほど密接である。イェスペルセンも『音律論』の終り近くで、nun, tot, memberの例をあげて、母音(音調の頂点)の前の子音がほとんど常に短く、後の子音の長い事が甚だ多い、と述べている。日本語の音節は、そういう事情から、子音・母音と切り離して考えられない一体として感じられるのが普通で、日本で音節文字(仮名)が生れたことも、当然のことだが、またその仮名がこの感じをいっそう強めたことも否定出来ない。この因果関係は循環する。だから日本語の音韻単位は「音節」であって、それをさらに「音素」にまで分析する必要はないと説く学者もある。

 その理由は、子音は常に母音の前に現われて音節を作るのだから、子音の独立性というものが、英語にくらべて非常に弱い。音そのものがきこえも弱く、常に母音の前に現われるため短かく、音節構成では母音が主役であるのに対して、いつもワキ役なのだから、極めて影が薄い。音節での母音の比重はおそろしく大きいのに、子音は比べものにならないほど小さい。まことに日本語の子音は、音節副音と言うよりも音節従音とでも言うべき弱さである。これは撥音、促音のような特殊音節以外に、子音が単独にも、また母音の後にも、現われないことに原因があるのだ。

 楳垣教授の論旨を(少し非科学的ではあるが)大袈裟に言い替えると、日本語には欧米諸語に見られるような本来的な子音がないとさえ言える。事実外国語の教育を受けていない普通の日本人には、tやkのような単独の子音や、prやstrといった子音の連続を正確に発音することは容易ではない。殆んどの場合、子音の後に小さく母音をつけてしまうのである。これは至極当然のことであって、日本語は音節の構造上、このような単独の子音および連続子音に対する必要が全くないからである。

 このようなわけで日本語では、人々がことばを日常使う実際のレベルにおいては子音と母音がしっかりと結合した音節だけを問題にすれば事が済む。しかもこの音節の数たるや僅か102(数え方によっては112)という少数であるために、その一つ一つに固有の名称つまり文字をふりあててしまえば、すべての用が足りる。その上、同一の文字に濁点や半濁点を加えるという工夫をして、ta-da, pa-baのように日本語の構造の中で相互に密接な関係を持つ音節をば、た―だ、ぱ―ば、のように基本的には同一の文字で表わしたり、kya, pyaのごとき、いわゆる拗音を含む音節を、きゃ、ぴゃという具合に二つの文字を合成して表わすことにしたため、必要な文字の数がただのいろは47(48)で済むことになったのである。
 
 日本語が仮名という音節文字を使っていることは、以上のように日本語の音声構造上の要求を、最少の文字で過不足なく表わすために、実によく工夫されているものなのであって、言語の構造上の必要から、単音に固有の文字をあてざるを得ない西欧諸語のアルファベット26文字と、数の上だけで比較することはまったく意味のないことである。

※鈴木孝夫さんの『閉された言語・日本語の世界【増補新版】』(新潮選書)から一部を再編集。

デイリー新潮編集部

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