SF好きなら誰もが知る「二大傑作」が、いずれも「バッハの名曲」を選択した納得の理由

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 史上最高のSF作品とは何か。もちろんその答えは人それぞれだろうが、小説ならばアーサー・C・クラークの『幼年期の終り』、映画ならばアンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』の名前を挙げる人も多いだろう。

 実はこの二つの傑作には、ある重要な共通点がある。作品世界を表現する大事なシーンで、バッハの名曲が印象的に使われていることだ。なぜベートーヴェンでもワーグナーでもなく、バッハだったのか。

 岡田暁生さんと片山杜秀さんの対談本『ごまかさないクラシック音楽』(新潮選書)から、一部を再編集してお届けしよう。

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岡田:少し変わった観点からバッハを語りたいと思います。たとえばアンドレイ・タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』における、バッハの曲の使われ方なんかはどうでしょう?

片山:コラール・プレリュード《われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ》へ短調(BWV639)。確かにたいへん印象的な使われ方ですね。

岡田:川べりで、水草がそよいでいるシーンで、バッハの曲が流れている。地球の終わり、あるいは人類が死滅したあとの世界のイメージですね。人間がもういないのに流れている音楽。こんな場面で流せる音楽は、確かにバッハ以外には絶対ありえない。

片山:そうですね。『惑星ソラリス』は、ポーランドのスタニスワフ・レムの小説が原作ですが、タルコフスキーは「惑星ソラリスにある意思を持った海」という点を哲学的に強調していました。ソラリスでは、全体で一つのある秩序が完成していて、個物というものが「アウフヘーベン」された世界、すなわち矛盾するいくつかの要素が統一されて「止揚」しているような世界を描いています。そこに唯一、流れる音楽が、あのバッハなんですね。

岡田:そう、劇中に流れる音楽は、あの曲だけです。

片山:タルコフスキーは、ほかの映画でもバッハを使っています。遺作となった『サクリファイス』では、《マタイ受難曲》のなかのアリア〈憐れみ給え、わが神よ〉が流れます。核戦争が勃発し、終末的な状況になったとの設定です。まさに究極の「崩壊」「滅亡」のイメージで、現にこの映画の完成直後、タルコフスキーは亡くなってしまうわけです。その最後の最後が、やはりバッハでした。

ベートーヴェンではなくバッハ

岡田:昔から私は「人類が死滅した後でも鳴り続けている音楽があるとすれば、それはバッハ以外にはない」と考えていて、例えばグレゴリー・ペックが主演したSF映画『渚にて』や、小松左京の『復活の日』『日本沈没』などにも、バッハがピッタリ合うような気がしていました。そう言えば最近、たまたまアーサー・C・クラークの『幼年期の終り』を読み返したんです。

片山:あれは傑作ですね。

岡田:すごい小説です。地球が幼年期を終え、次の段階に進化することになった。人類も全部メタモルフォーゼンしちゃう。そんななか、地上に残った最後の「人間」が、ポツンと一人で来る日も来る日もピアノでバッハを弾いている。ああ、やっぱり地球で最後の一人になって何を弾くかとなったら、それはベートーヴェンじゃない、バッハしかないと納得した。

片山:ベートーヴェンは、人間の「相手」がいないとうまくいかないでしょう。一人だったら、やはりバッハですね。

岡田:なるほど、そうか……ベートーヴェンは「相手」が必要。それは重要なポイントです。ベートーヴェンの音楽は弁証法的だからね。クラークの小説みたいに、「相手」が宇宙人だったりしたら弁証法は成り立たないだろうしな(笑)。

バッハの音楽は「本当はこわい」

片山:『幼年期の終り』も、人類はみんなメタモルフォーゼンして、肉体を超越した、一種の精神エネルギー生命体みたいな存在になって、宇宙に行ってしまう。しかも相互交換可能な、一つの「全体」になったような表現でした。これ、音楽でいったら、まさにバッハ的なポリフォニーの実現ですよ。それまでモノフォニーで一声部だった音楽が、ポリフォニー=多声部で一つの世界を表現できるようになったのですから。

 そういう、生身の人間としては滅亡して、その先に行くというヴィジョン。「いなくなる」わけではなく、全部の人間が齟齬なくコミュニケート可能な精神エネルギー体に進化するというのが、『幼年期の終り』のラストでもあり、また『惑星ソラリス』における意思をもった惑星にもつながるように思うんです。それこそが、バッハ的なヴィジョンではないでしょうか。

岡田:やっぱりバッハの音楽は「本当はこわい」んだよね(笑)。

片山:つまり、個物の相克を乗り越えると、完璧なポリフォニー、そして別々の旋律が同時にからみ合う対位法に行き着く。しかし、そこまで行くには、大きな痛みや犠牲を伴う。それでもなんとか血を流しながらたどり着き、ついに人間の全能力が神に向かって解放され、すべてが可能になったとき――それは、もしかしたら核エネルギーのことかもしれないけど、とにかく人間がやることを全部やってこそ、その先に開けるものがある。これがまさしくバッハの《マタイ受難曲》でしょう。みんなで血を流して、ルター的な狂気に駆られて、行くところまで行ったら、進化して違ったものになっちゃう。そういうことまですべて引き受けるのが、たぶんバッハなんです。

 なので、やっぱりタルコフスキーもクラークもバッハを使うのは、ちゃんと落としどころをわかっているからなんですよ。

岡田:確かに彼らはバッハの音楽の本質を熟知している……。

バッハが辿り着いた「超近代」

岡田:クラークの『幼年期の終り』、あるいはレムとタルコフスキーの『惑星ソラリス』は、従来の「人間」がいなくなって、脳波エネルギーなどの強度だけが全宇宙とシームレスにつながっている世界を描いている印象がある。全人類の脳がインターネットでつながっている世界。それはもう目の前に来ている。

片山:私どもが持っている音楽のネタは、もうバッハが全部、実現してしまっているようなものですからね。やっぱりバッハは神の秩序を、自分の音楽で表現しようとしたのだと思います。神の秩序を一人で引き受けたという点では、たしかに「音楽の父」ですが、引き受けすぎて、その先にはもう「音楽の終わり」が垣間見えている、だから超人類や現代音楽に通じるものがある。それはポスト・モダンも超えた「超近代」かもしれません。

 タルコフスキーもレムもクラークも、そんなユートピアを描いたわけですが、音楽でそれをやったのが、バッハなのでしょう。ベートーヴェンのような「起承転結」とか「闇から光へ」とか「悲しみから喜びへ」とは、まったくちがう。時代的にはベートーヴェンより前なのに、すでにバッハは、喜怒哀楽も闇も光も全部、アトランダムに合体させて表現してしまっていた。これを「音楽の父」といっていいかどうかは別として、バッハは、そういう作曲家だと認識して聴くべきではないでしょうか。

※岡田暁生・片山杜秀『ごまかさないクラシック音楽』(新潮選書)から一部を再編集。

デイリー新潮編集部

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