イタリアで「時間にルーズ」が失われつつある? デジタル技術が消す「適当さ」(古市憲寿)

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 イタリアに「時間にルーズで適当」という印象を持つ人は少なくないと思う。実は今、イタリアの高速列車に乗りながら、この文章を書いているのだが、かつてないほど時間に縛られた旅行をしている。

 今や有名観光地はほとんどが事前予約制になった。ミラノで〈最後の晩餐〉を観るにも、フィレンツェでウフィツィ美術館へ行くにも、時には数カ月前にチケットを買う必要がある(直前でも高額のガイドツアーに申し込むという裏技はある)。

 チケットは「12時15分」のように細かく指定がされているので、きちんと時間通りに集合場所へ行く必要がある。電車も、混雑する時間帯は売り切れているから、事前予約が安心だった。

 こうした変化は、券売所の人件費削減につながるし、人数制限がしやすく感染症対策にもなる。観光客としても、長蛇の列に並ばなくて済み、旅行の予定が立てやすくなった。

 だが手放しで歓迎できるかといえば考えてしまう。当日ふらっと有名観光地を訪れるのが難しくなり、仕事のようにスケジュールを立てなければならない。

 考えてみればイタリアが「時間にルーズで適当」というのは、一人ひとりが主体性を持ち、自分の頭で考えていたから、と言い換えることもできる。

 翻って時間に厳格というのは、黙って上が決めたルールに従うことだ。この場合の「上」というのは、上司というよりも、ITを活用したシステムそのものである。

 今に始まったことではない。近代という時代は、時間と制度を共有し、予測可能性を高めることで成立してきた。だがそれでも適当さと冗長さがあった。労働者の管理には限界があり、顧客の要請に完全に応えるのは無理だった。

 だがデジタル技術が世界を覆った時、その適当さも消えていく。全てが合理的に管理され、「時間にルーズで適当」という事態は許容されない。そうした世界的な変化がイタリアにも影響を与えつつあるのだろう(同じイタリアでも南北でまるで風土が違うし、居住者の感覚もまた違う)。

 なんてことを書いているが、さっきから電車が止まっている。電気系統のトラブルが発生しているとアナウンスがあった。どうやら目的地への到着は50分遅れになるという。明るいうちにヴェネツィアへ到着するはずが、どんどん窓の外が暗くなっていく。

 幸か不幸か、われわれはまだ物理的な世界を生きている。メタバース上なら、移動は瞬時でできるし、何らかの不具合にはコピーを用意すればいい。だが現実の電車で問題が起きた場合、誰かが修理するまで解決しない。日本の新幹線でさえ、大雪などの自然現象の前では当然に遅延が発生する。

 結局、物理的な世界を捨てられない限り、これからも人類はある程度「時間にルーズで適当」であり続けるのだろう。ようやく電車が動き出した。予定が狂ってしまったが、あらゆる遅延が許容されない世界の方が怖いと自分を納得させる。この原稿も書けたし。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2023年5月25日号掲載

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