【アーマッド・ジャマル】マイルスから上原ひろみまで、ジャズの歴史を見てきたピアニストの死
上原ひろみのプロデューサーとして
来日公演が少ないアーマッドの生の演奏を聴くチャンスが少なかったことは残念だったが、2014年の第13回東京JAZZではカルテットで演奏している。アーマッドのピアノはひたすら優しい。愛おしそうにピアノを弾く。愛おしそうにメンバーにまなざしを向ける。そのマインドが音に表れていた。
東京オリンピックの開会式(2021年)で演奏し、最近では映画「BLUE GIANT」の音楽も話題のピアニスト、上原ひろみは2003年にアメリカの名門レーベル、テラークと契約してデビューしている。そこにはアーマッドの尽力が大きかった。上原はボストンのバークリー音楽大学作曲科に在学していた。そのときに彼女の才能を認めて自分が所属するテラークに紹介したのがアーマッドだった。
上原はこの年「アナザー・マインド」でデビュー。世界中のジャズファンを驚愕させたが、そのアルバムにはプロデューサーとして、アーマッドの名前がクレジットされている。
デビュー1枚目に、上原はスタンダード集を勧められていたが、オリジナルでスタートしたいと主張した。そのときの支えになったのがアーマッドの言葉だった。
「ヒロミ、自分の音楽のことは自分が一番知っている。自分を信じろ」(『上原ひろみ サマーレインの彼方』神舘和典著・幻冬舎刊)
アーマッドに言われたこの言葉に上原は勇気づけられた。
上原は3枚目のアルバム「スパイラル」でアーマッドに捧げる曲を書き演奏している。「ラヴ・アンド・ラフター」だ。この曲はリズムもメロディも実に楽しい。彼女によると、アーマッドの人柄を音楽にしたそうだ。
筆者は、その上原の録音現場で、1度だけアーマッドに会ったことがある。
2008年1月、アルバム「ビヨンド・スタンダード」のときだった。場所はニューヨーク州、ウッドストックのアレイア・スタジオ。人間よりもクマやシカのほうが多い山の上の森のなかのスタジオに、当時70代後半になっていたアーマッドが上原を激励に訪れた。
とくにアドバイスを送る様子はなく、ただ笑顔で語りかけ、真っ白な歯を見せてワハハワハハと笑っていた。“ラヴ・アンド・ラフター”そのままだった。筆者が挨拶してもワハハと笑い、固く手を握る。「お会いできて光栄です」と言っても「サンキュー、サンキュー」と言い、ワハハと笑っていた。
1950年代から活躍し続けるレジェンドがまた1人この世を去った。ジャズ史のページが1枚先へとめくられた。
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