【アーマッド・ジャマル】マイルスから上原ひろみまで、ジャズの歴史を見てきたピアニストの死

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 ジャズ界の巨人の訃報が続く。先日のウェイン・ショーターに続き、今度はピアニスト、アーマッド・ジャマルの死が伝えられた。マイルス・デイビスが「オレの好みにピッタリ」とまで絶賛したという彼の魅力はどこにあったのか。音楽ライターの神舘和典氏による寄稿である。

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マイルスが誘い続けた男

 ジャズピアノのレジェンド、アーマッド・ジャマルが4月16日に永眠した。92歳。前立腺がんだった。

 ジャズファン以外にはあまり馴染みの深い名前ではないかもしれないが、マイルス・デイビスから上原ひろみまでをつなぐ存在だった、といえばその重要性が理解しやすいのではないだろうか。

 アーマッドは1930年にアメリカ、ペンシルベニア州で生まれた。1950年にシカゴに移転、翌1951年にレコードデビューする。1957年に発表したアルバム「バット・ノット・フォー・ミー」が大ヒット。約2年間ベストセラーチャートに入っていた。このアルバムに収録された「ポインシアナ」はジャズの名曲としてずっと聴き継がれている。

「アーマッド・ジャマルは、値するべき評価を受けたことのない偉大なピアニストだ」(『完本マイルス・デイビス自叙伝』マイルス・デイビス、クインシー・トループ著・宝島社刊・以下同)

“ジャズの帝王”マイルス・デイビスも自伝で語っている。

「間に対するコンセプト、タッチの軽さ、控えめな表現、音符や和音や楽節のアプローチに一発で虜になってしまった」

 アーマッドのオリジナル曲についても、マイルスはベタ褒めしている。

「叙情性やピアノの奏法、グループのアンサンブルの重ね方に聴ける間の使い方なんかも、オレの好みにピッタリだった」

 マイルスはアーマッドの曲「バット・ノット・フォー・ミー」を自分のライヴでも演奏していた。

 1950年代、マイルスはいく度もアーマッドを自分のグループに誘っていた。しかし、アーマッドは固辞し続ける。「ポインシアナ」で稼いだお金でシカゴにレストランやクラブを経営し快適な生活を送っていて、ツアーを好まなかったと伝えられている。マイルスはアーマッドに近いタッチのピアニストを探し、レッド・ガーランドを自分のグループに起用した。レッドにはいつも、アーマッドのように弾け! と言っていたらしい。

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