日本で一番「ロヒンギャ難民」が集まる街「館林市」 280人が“館林”を選んだわけ

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 群馬県高崎市から茨城県鉾田市まで北関東を横断する一本の道。それが国道354号線だ。誰が呼んだか、この「エスニック国道」は知る人ぞ知る異国飯の本場なのである。

 外国人労働者が集まるレストランやモスク、ときには彼らの自宅でアジア専門ライターの室橋裕和氏がふるまわれるのは、湯気立ち上る皿、皿、皿。

 今回、訪れたのは、群馬県館林市。ここは、ミャンマーでの迫害から逃れて来日したロヒンギャの大半が住む街である。在日歴25年以上の男性から、館林とロヒンギャの歴史を聞くうちに、日本の難民政策のダブルスタンダードも垣間見えてきた。

『北関東の異界 エスニック国道354号線―絶品メシとリアル日本―』から一部抜粋してお届けする。

ミャンマーを追われた、ロヒンギャの集まる街

 354をクルマで走りながら、アウンティンさん(54)は言った。

「もう20年以上になるけど、館林は住みやすいところだよね。夏は暑いけど」

 慣れた様子でハンドルをさばき、雑木林や小さな工場や、チェーンの飲食店や大型量販店が並ぶ354を軽快に飛ばす。やがて左折し、国道122号線に入った。この道沿いには小さなハラルショップが2軒ほどある。それらをやりすごし、アウンティンさんは業務スーパーの駐車場に愛車を停めた。

「買い物しよう。最近はギョームもハラルの食べ物が多いし、安いの」

 アウンティンさんについて店内を歩く。なるほど、冷凍の鶏肉や牛肉にもちゃんとハラル認証のマークがついている。調味料や、レトルトのカレーの缶詰、インスタント麺なんかもハラルのものがいくつかある。なかなかの品揃えなのだ。

「私たちが増えたからかどうかは、わからないけどね。助かるよ」

 そう言ってアウンティンさんは、ハラルのフルーツジュースをいくつか買い込んだ。

 それからクルマに戻り、パキスタン料理のレストランとか駅の周辺、アウンティンさんもよく行くというジムなどを眺めながら館林を流す。ちょうど昼の礼拝の時間になった。

「モスク寄ってくよ」

 街の中心部の北側にある「マスジド・サラーマト」に乗りつける。駐車場はすでにいっぱいだった。近隣の工場などで働いているというイスラム教徒の男たちが集まってくる。僕もプレハブのようなモスクにお邪魔し、2階に上がって、絨毯が敷かれた大部屋で礼拝の様子を見学させていただいた。

 彼らの多くはロヒンギャだ。おもにミャンマーに住んでいるイスラム系の少数民族である。しかし、ミャンマー国内では「隣国バングラデシュからの不法移民」と扱われ、手ひどい弾圧を受け続けてきた。国籍を与えられず、ミャンマー軍による殺人や焼き討ちなどが横行してきた状況を、アメリカ政府は「ジェノサイド(民族大量虐殺)」と断定し、人道に対する罪であると非難している。

 ロヒンギャの人口はおよそ200万人とされるが、その半数以上がミャンマーを追われ、難民となって世界各国に散った。バングラデシュが最も多く約90万人が難民キャンプで暮らすが、ほかにマレーシアやタイ、パキスタン、サウジアラビアなどにも分散している。そして日本にも、迫害を逃れたロヒンギャが300人ほどやってきた。その大半が、ここ館林で生きている。

きっかけは「中古車ビジネス」

 僕を乗せてぐるりと館林を一周したアウンティンさんは、354沿いに建つ自宅に戻った。すぐに奥さんが甘いミルクティーを淹れてくれる。

 アウンティンさんも30年ほど前にミャンマーを逃れてきた難民のひとりだ。館林にやってきたのは1999年のこと。それからは工場で働きながらお金を貯め、中古車や中古家電を途上国に輸出する会社を設立した。「在日ビルマロヒンギャ協会」の副会長も務め、館林に増え続けるロヒンギャ難民と、地域の日本人との橋渡し役として走り回ってきた。

 それに、こうして取材の応対もする。アウンティンさんは日本に暮らすロヒンギャたちのスポークスマン的な存在でもあるのだ。僕も何度かインタビューさせてもらったことがあるし、館林をガイドしてもらうのもこれが初めてではなかった。ロヒンギャ関連のニュースがあればすぐにメールを送ってきて「記事にしないか」と持ちかけてくる。かと思うと、いきなり電話してきて、

「いまシーシャ(水タバコ)吸ってるんだけど、そしたらムロハシさんのこと思い出してね。ムロハシさんシーシャ好きだったでしょう。今度一緒に楽しもう」

 なんて話してくる、人なつこいおじさんでもある。

 そんなアウンティンさんに改めて「なぜ館林だったのか?」と聞いてみた。北を流れる渡良瀬川、南の利根川と平行に、354が東西に貫くこの街に、どうしてロヒンギャ難民が集住しているのか。館林で有名なのは、夏場に張り出す太平洋高気圧によって熱せられた空気が赤城山から吹き下ろすフェーン現象によって地獄の猛暑となることや、昔話「ぶんぶく茶釜」ゆかりの茂林寺であろうか(ちなみにアウンティンさんと待ち合わせるときは同じ東武線でも館林駅ではなく茂林寺前駅である。そのほうがご自宅に近い)。あとは僕もハマったアニメ「宇宙よりも遠い場所」の舞台となったことくらいだが、いずれもロヒンギャとは関係がなさそうだ。

 館林の人口は7万5559人だが、うち外国籍は2600人。市の統計を見ると、近くの大泉と同様に、日系ブラジル人の労働者や技能実習生のベトナム人、インドネシア人が多いようだが、そこにミャンマーが入ってくるのが周辺の自治体と違うところだ。このミャンマー国籍のうち280人ほどがロヒンギャだとアウンティンさんは言う(数字は2020年。館林市による)。

「もともとはね、ひとりのロヒンギャがここに来たことから始まったんだよ」

 と、セリーム・ウラさん(60)を紹介してくれた。顔のしわに苦労が刻み込まれているような、しかし優しげなおじさんだった。独学で学んだという日本語で、日本人よりもむしろ勢いよく話す。

「私が館林に来たいちばん最初のロヒンギャなんですよ。1996年のことです」

 やはり難民として迫害を逃れて日本にやってきたウラさんは当初、東京のインドカレー屋で働いていたそうだ。がんばっているうちに少しずつお金も貯まり、なにかビジネスをしようと思い立つ。そのときに頼ったのは、ミャンマーからバングラデシュ側に逃れたロヒンギャの親戚だった。

 前述したようにバングラデシュには巨大な難民キャンプがあり、おおぜいのロヒンギャが暮らしている。その数はいまや90万人というから、もはやひとつの国のような状況だ。

 彼ら難民の一部は、バングラデシュ国籍を取得した。そしてバングラデシュ人として日本に出稼ぎにやってきて、工場の多い北関東のこの地域で働く人もいたそうなのだ。さらにそこを出発点にして自らビジネスを立ち上げる人も出てくる。おもに「中古車」だ。日本の中古車を途上国に輸出するのである。このビジネスを開拓したのはパキスタン人だが彼らから同じイスラム教徒のよしみで、バングラデシュ人にも中古車輸出のノウハウが伝わっていく。その中に、いわば「ロヒンギャ系バングラデシュ人」であるウラさんの親戚もいたのだ。

「彼らに相談してみて、私も同じ商売を始めることにしたんです」

 そのために必要なのは、広い土地だ。中古車をキープしておくための倉庫(ヤード)に使うのだ。首都圏でも、群馬のこのあたりまで来れば土地は安い。加えて館林なら中古車オークション会場のある群馬県藤岡市、栃木県小山市、千葉県野田市にもアクセスしやすい。かつ、館林は大泉や伊勢崎と並ぶ工場地帯として発展してきたため、バブル期から南アジア・中東系の労働者が多かった。だからモスクもハラル食材店もすでにあった。館林周辺にはイスラム教徒が暮らしていける生活の基盤があったのだ。

 そんな館林に定住し、ビジネスを始めたウラさんのもとに、どんどんロヒンギャが集まってくるようになる。世話焼きのウラさんは仕事や住むところなどの面倒をよく見たそうだ。やがてアウンティンさんも故郷から逃れ、99年に館林に合流した。彼らは当初、パキスタン人のモスクに集まっていたが、仲間同士で寄付を集めて自分たちのモスクもつくりあげた。それが「マスジド・サラーマト」だ。このモスクをコミュニティの核に、いまでは280人ほどのロヒンギャが館林で暮らす。

「仕事は工場が8割くらいで、あとは中古車や食材などのビジネスかな」

 とウラさんは言う。アウンティンさんもやはり中古車業界に参入したひとりだ。こうして館林に、難民たちは寄り添うようになった。やはりこの街も、「仕事があったから」外国人が増えていったのだ。

「本物の難民」とは誰のこと?

 ところで日本に暮らすロヒンギャたちは、その多くは実のところ「難民」として認められていない。日本政府に難民として認定してもらうよう申請したのだが、アウンティンさんもウラさんも、そのほかほとんどのロヒンギャは訴えを却下されている。ミャンマー軍に故郷の村を焼かれ、友人や家族が殺され、命の危険を感じて国外に逃れざるを得なかった人々もおおぜいいるのだが、日本政府からすると彼らは「難民」ではないらしい。

 この国は基本的に、難民を認めず、歓迎しない方針だ。それならなぜ、難民保護と受け入れのための国際的な取り決めである「難民条約」に加盟しているのか疑問ではあるのだが、ともかく日本は1980年代のインドシナ難民をのぞいて、まとまった難民を迎えることはなかった。2021年の場合、日本に逃れ難民申請をした2413人のうち、認められたのはわずか74人だ。2017年は過去最多の1万9629人もの人が難民申請をしたが、認定は20人のみ。きわめて狭き門なのだが、どうしてこの人が難民でこの人は却下なのか、明確な基準はわからない。ロヒンギャも19人が難民認定されているが、認定されなかった人との違いがはっきりせず、公表されることもない。それが日本の入管行政だ。

 アウンティンさんやウラさんは、難民としては認められなかったが「定住者」という在留資格を得た。これは就労をはじめとして日本人と同じようにさまざまな権利があるものだ。また「特定活動」という在留資格をもらうロヒンギャもいる(こちらは就労できる時間が週28時間以内に制限されている場合もある)。この国で生き、根を張っていくことをいちおうは許可されたわけだが、それでも「お前たちは難民ではない」と日本政府に断定された悲しみは大きい。祖国で受けた弾圧、家族や友人の苦しみを否定されたような気持ちにもなる。

「日本で働けるようになって、安全に暮らせるし、ありがたいと思うよ。でも、本当は難民として認められたい」

 と、ふたりは話す。

 それにロヒンギャの中には、「定住者」などの在留資格に移行できず、「仮放免」という立場で暮らす人もいる。これは「難民申請を受けて審議する間、本来ならば結果が出るまでは入国管理局の施設に収容する必要があるが、人道的な見地から身柄は拘束せずに、“仮”に“放免”する」というものだ。

「仮」の滞在者なのだから日本に住民登録はできず、社会保険もないし就労も許可されない。生きていくすべがない。だから仲間たちで助け合ってはいるが、そんな状態で何年も「仮」のまま館林で生き、故郷へも帰れない人がいる。コロナ支援の10万円給付も受けられなかった。

 一方でウクライナからは「難民ではなく避難民」という名目で次々と受け入れを続け(202 2年11月現在で2158人)、就労や日本語学習のサポート、最大16万円の一時金や医療費負担など手厚い支援がきわめて迅速に決められた。これはインドシナ難民のときと同じく、アメリカ政府からの圧力があったといわれる。

 しかし、ミャンマーの紛争なんて国際社会からは遠いのだ。だからあまり注目されることもなく、難民とさえ認められず、国からはなんのサポートもなく、ロヒンギャは苦労しながら館林で生き延びてきた。ウラさんやアウンティンさんは言う。

「ダブルスタンダードではないかと思います。私たちロヒンギャも同じ難民、同じ人間」

 その言葉には、悲しみと、少しの怒りが込められているように思った。

 そんなロヒンギャの一方で、北関東にはまた別の種類の難民がいる。「偽装難民」だ。これは、母国ではなんの迫害も受けていないのに、そもそも平和な国から来ているのに「難民です」と申し立ててくる外国人のことだ。日本の難民認定率の低さの理由のひとつに、こうした人々の存在があることは確かだろう。

 偽装難民なんていうと国際犯罪の臭いもするのだが、そんなおおげさなものではなく、要は日本で長く滞在するための方便なのである。難民申請をし、却下されても週28時間内の労働が認められるケースもある「特定活動」に移行できればラッキー、そうでなくとも仮放免になって不法就労すればいい。本当は働けない立場でも、雇ってくれる職場が北関東にはある……本人たちはいたってのん気に、日本で飯を食っていくための手段として難民申請しちゃうのである。また、それを指南する日本人の派遣会社や行政書士もいる。

 だが、そこで迷惑するのは、ロヒンギャのような「本物の難民」だろう。難民というだけで日本人から怪しまれたりもする。「本物」と「偽装」、どちらの難民も混在しているのが北関東なのである。

※。『北関東の異界 エスニック国道354号線―絶品メシとリアル日本―』から一部を再編集。

デイリー新潮編集部

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